自己と自我という話を以前にもこのブログでしたことがあるような気がしますが、今日はもう少しわかり易く説明しようと思います。
その前にこの自己と自我という言葉自体が適切なのかどうかというところから始めたほうがいいのかも知れませんが、それに関してはまたいつか考えることにします。
自己とは本来の自分、素の自分、固定観念や刷り込みなどがない自分だと思ってください。
対して自我とは生まれてからこれまでの間に入って来た情報から生きるために必要なバリアーのようなものをまとった状態だと考えるといいと思います。
以前書いた「エゴマーク」というタイトルの記事にもあったように、生まれるとすぐにエゴが体に発生します。
赤ちゃんがお母さんの乳首を吸いながら反対側の乳首を触るのは、自分がそれを独占したいというエゴから発生する行為だと分析する学者もいます。
生きるために食料を確保したいという気持ちまでもエゴだとして、それがいけない行為だと決め付けることは出来ませんが、そのことが原因でいざこざが起きる可能性は十分あります。
ケーキの大きい小さいが原因で喧嘩する兄弟とは少し違うかもしれませんが、ささいな執着心が大きな問題に発展することはよくあることだと思います。
兄や姉と一緒に暮らしている一人の人間なのに自分の分け前が少ないということや先に生まれたせいで我慢を強いられるなど、自分の責任ではないのに扱いにおいて不満が残ることがあります。
兄弟間の格差だけでなく、隣のAくんとの比較や親戚のB兄さんとの比較など、自分に関係の無い基準を勝手に持ち出され比べられたりもします。
そのような環境で育ち、やがて社会人となるのですが、それからは人との比較に加えて社内ルールであったり、社会人としてのエチケット、ノルマなどというものが、のしかかってきます。
結婚すればまた別の要素が自分を覆っていくのです。
生まれてから今までに覆われてきたものが、形となって車になります。
自我とはその車に乗った状態のことで、自己とは車から降りて一人で歩いている状態だとイメージできます。
車を構成している部品の中には無くなれば動かなくなってしまう重要な部品もあればあればいいけど無くても走行自体にはまったく問題のない部品もあります。
悩みを抱える人たちはほとんどそういった部品に対していらいらしたり、おどおどしたりしています。
気持ちよく動いているときはいいですが、道幅が狭くなったり混雑してくるとまたまたいらいらしてくるのです。
全ては車に乗っているせいだということを忘れてしまっています。
ハンドルを握り、方向を決めるのも自分だし、アクセルやブレーキを使って速さをコントロールするのも自分です。
また車から降りることも自分の意思で出来るのです。
疲れたときに優しい言葉をかけて欲しいという欲求は誰にもあるだろうと思います。
その言葉は車でいうとガソリンなのかも知れません。
車に乗っている限りガソリンは必要ですが、スタンドまで行かずに誰かに入れてもらうのを待っている人もいます。
僕は車に乗らない生活を目指しているのですが、降りられないという人はせめて自分にあった車に乗り換えるか、動く仕組みや構造を理解することが必要だと思います。
とにかく運転手は自分だということを意識してください。
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