サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2017年09月

タイトルをみるとロマンチックな内容なのかなとも思いますが、今日の記事はがっつりとセックスのテクニックについてです。

別にメレンゲでなくてもいいのですが、時間をかけて同じ作業を繰り返していくと、元の素材が劇的に変化することがあります。

卵白がメレンゲに変化するように。

セックスの際の前戯も同じなのではないかとふと思いついたのです。

想像ですが、セックスにかける時間は多くの場合、30分以内ではないでしょうか。

挿入時間ではなく、始まりから終わりまでの時間です。

男性の性処理目的であれば、10分もかからないこともあるはずです。

性感マッサージは、ゆっくりと時間をかけて、セックスの前戯のようなものを続けていくのですが、ある瞬間から女性の反応が変わることがあります。

それは卵白がホイップ状に変化していく瞬間に似てるのです。

時間をかけないセックスでは、卵白をただかき回しただけのようなもので、卵白は卵白でしかなく、女性の体は素の状態のままなのです。

セックスをこれからする機会がある男性がいらっしゃいましたら、一度今日の記事を思い返して挑んでいただければと思います。

同じことを続けていくと必ずメレンゲになると信じて。

なんでわざわざ女がお金を払わなければならないのという意見をたまに聞くことがあります。

考え方は人それぞれなので、自由だと思いますし、そんな人に対して理解を得たいとも思わないのですが、リピーターさんと話をしている中で、気づきがありました。

彼女は、煮詰まってきたら予約をされるそうです。

僕は煮詰まったという経験が無いので、どういう状況なのかは具体的に判らないのですが、仕事や家事などに追われて、いっぱいいっぱいの精神状態のようなものなのかも知れません。

彼女は既婚者で、ご主人ともたまにセックスをするそうですが、今はまったくそんな気持ちになれないということでした。

施術もセックスも同じようなものなのに、なぜわざわざ利用されるのかなと質問してみると、疲れるということでした。

内容的にはそれほど変わらないと思うのに、どうして家のセックスが疲れるのかとさらに突っ込んで聞くと、相手に気を使わなければならないからという結論になりました。

施術の場合は、自主的にしたいと思わなければ、自ら相手に対して気を使って気持ちよくさせる必要がなく、はじめから終わりまでずっと感じるだけでいい訳です。

そんな話をしていると、ふと料理を思い出しました。

同じ食事でも、家庭で食べる食事は、夫や子供たちの好みや栄養などを考えて自ら作らなければならず、疲れるものです。

しかし外食でなにもしないでも目の前においしい料理が並ぶのであれば、疲れは逆に消えていくのかも知れません。

女性用風俗にお金を払うということが理解できない人は、おいしい外食を食べたことが無い人が、食事は、わざわざ高いお金を払ってするものではないと言っている人と似ているように思います。

家庭料理が一番おいしいというのが、理想であるのは間違い無いのですけれど。

瀬戸内寂聴さんが30年以上続けている京都での法話の会で、不倫した議員の話に触れ、「人を好きになることは理性の外」、「(運命的な出会いが)何もなくって死ぬ人は、ちょっと可愛そうな気がするわね」と仰ったという記事を読みました。

寂聴さんの本なども読んだことがなく、あまりよく知らないのですが、たまにニュースなどで、彼女の言葉を聞くと、情や愛について寛容で、とても情熱的だ人だなといつも感じます。

出家している身でありながらも、とても人間臭い部分に対して理解が深いというのが、たくさんの人の心を惹きつけている魅力のひとつになっているのかも知れません。

また年齢が95歳でありながら、その発言はとても若々しく、今でも現役なのではないかと思わせることも驚きます。

夫婦間の愛が冷め、自分が女として終わってしまうことに対する不安や焦燥感に心を痛めて毎日を過ごしているかたの中には、理性や倫理感によって、女としてもう一度輝きたいといった気持ちを封印している人も多いことでしょう。

僕も寂聴さんと一緒で、そういった人を見ると、可愛そうな気がします。

もっと自分を解放すればいいのにといつも思います。

恋愛に限らず悩みや日々の不条理などで苦しく感じるのは、決して他人のせいではなく、自分自身の問題であると思えるようになれば、もっと楽な道を選択しやすくなります。

恋は理性の外。

問題は自分の中。

そんな感じでしょうか。

もしかすると以前にも同じタイトルで記事を書いたかも知れませんが、たぶん内容は違うのでお許しください。

僕は、愛について語ることなど出来ないということを最初に断っておいて、この記事を書きたいと思うのですが、結論をいうと愛に正解などないということを言いたいわけです。

今回、ここでとりあげている愛というのは、家族愛や動物愛、博愛などといったものではなく、シンプルに男女間の愛です。

男女に限定すると支障があるかもしれないので、愛し合う二人というべきかも知れません。

本当の愛とは無償の愛だ。

そんなこともよく聞きます。

相手のことを本気で愛しているのであれば、自分の欲求などは、二の次にして、相手の幸せを願うのが、本当の愛。

たしかにそんなことが出来ればいいかも知れませんが、それが正解というわけではなく、そもそも愛に正解など存在しないはずです。

相手が幸せになっている姿を見ることが、自分にとっての一番の幸せだと言い切れるのであれば、そんな無償の愛でもいいかも知れませんが、自分は陰に隠れながら、ひっそりと相手の幸せを願っているなんてことは、僕には到底無理です。

愛というものを実現することよりも、まず自分が幸せになるべきです。

少し話がそれますが、男女の恋愛に限らず、自分の理想や目標などを設定し、それによって、自分自身をがんじがらめ、あるいは重荷を常に背負っている状態に苦しんでいる人をよく見かけます。

それはやっぱり本末転倒だと思います。

崇高な理念や倫理に沿って、人生をまっとうすることが、自分の使命、人生最大の目標だというのであれば、そういった生き方もありだと思いますが、たぶんそんなことをする人は、かなりのM体質であるはずです。

負荷がかかればかかるほど快感を覚えるのでしょう。

普通の人は、負荷がかかれば精神に異常をきたし、体調まで悪くなります。

自分が楽しいと思える時間が長いほうが、幸せだと思います。

かなり脱線しましたが、愛することはとてもいいことだと思いますが、その自分が理想としている愛の形に、自分自身が翻弄されるのは間違いです。

もし今、付き合っている状況に不満や不安を抱えているのであれば、相手の言動について悩むよりも、先に自分の考え方を見直すべきです。

愛に理想も正解もありません。

自分にとって一番居心地のいい愛が正解です。

他人の愛のドラマを見て、うらやましく感じるのは自由ですが、それを自分にあてはめようとすると、いろんなところで破綻をきたすおそれがあるので注意してください。

今日のまとめ

愛に正解は無い。
自分が常に楽しく感じることができる状況を優先するためには、理想とする愛の形を見直すことも必要。

以上です。

リピーターさんと話をしているのときに、彼女が突然、いくということを始めて体験したのはいつなんでしょうねというような疑問を投げかけてきました。

単純に挿入するだけでなく、以前物議をかもし出したフェラとクンニのような、人間ならではの行動を初めてしたことも話題となったのです。

本能として交尾というのは、人類が出現したときからあったでしょうけれど、それ以外のキスやペッティングなどといったものは、たぶん人類登場からかなりの年月が経過した後に発明(?)されたはずです。

セックスに限らず、食べ物でも、今は当たり前のようにおいしいといいながら食べているものでも、初めて食べた人は余程のチャレンジャーというかフロンティアスピリットの塊というか、ちょっと頭のネジが外れた人なんだと思います。

僕は、今食べているものの中で、一番すごいなと思うのは、たぶん蟹とか伊勢えびのたぐいです。

あんなものを食べようなんて絶対に思わないと思うのです。

もしベッドの下に伊勢えびとかいたら、ゴキブリの5万倍ぐらいびっくりするでしょうし、伊勢えびホイホイとかなど間に合わないはずです。

かなり話がそれましたが、今日のタイトルである男と女ではどちらが先にイクという体験をしたのかということなのですが、たぶん交尾の際に、精子を放出するには、いかないと駄目なので、必然的に最初から雄がイクというのは当たり前だったような気がします。

じゃあ女性は、誰が最初にいったのか、いくという概念はどの時代にできたのでしょうか。

「初めていった人」で検索してみると、アポロの宇宙飛行士の話で持ちきりでした。

月よりももっと遠い次元にいっているような気もするのですが、現実の世界では、性的にいくということよりも、アポロ計画のほうが重要なようです。

今日の記事は、結局、まったく中身がありませんが、これまであまり考えたことのなかった疑問を提唱できたのではないかと思います。

ちなみに「オーガズム」で検索してみると、古典古代「ギリシャ文学」や「ラテン文学」の中に、男性よりも女性の喜びのほうが10倍も大きいといった記述があるそうで、具体的な年代は記載されてませんが、たぶん紀元前から、女性の絶頂というのは知られていたはずです。

科学的に整理されたのは、1960年代のマスターズ&ジョンソンという性科学者が有名ですが、今からほんの50年ほど前の話なのです。

ながながと書いてきましたが、結局何が言いたいかというと、目の前にとても大事なものがあるのに、それをまったく無関心、あるいは敬遠し、研究しようとする人が少なかったということです。

じゃあ僕がこれから第一人者として研究します! と、いうことでもないんですけどね。

↑このページのトップヘ