サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2017年02月

今日は二つの発見がありました。

いつも利用しているホテルにたまに猫が現れるのですが、その猫の名前が「ビバちゃん」ということと、それを教えてくれたホテルで一番愛想のいい女性従業員さんの勤務期間が6年ということです。

猫の名前を教えてくれたその女性に、いつから猫が来てるんですかと尋ねたところ、働き始めたときにはすでにいたと教えてくれました。

ホントにどうでもいい話なのですが、僕はその猫に名前があるということに軽い衝撃を受けたのです。

猫好きの人がいて、猫の耳が一部カットされているのは、地域猫といって地域の人たちが育てていると教えられていたために、名前があるとは思っていませんでした。

でもよくよく考えると、「僕」とか、「猫ちゃん」とかいってるほうが、おかしい訳で、もしかすると「ビバちゃん」はそのホテルだけで、他にもたくさん名前があるかも知れません。

ビバちゃんは、とても人懐こくて、待合室で待っていると勝手にひざの上に乗ってきたりするのですが、帰るときに降ろそうとすると噛み付くときがあるので、もし出会ったときは気をつけてください。

夏の暑いときと冬の寒いときは、頻繁に出没しますので、特にご注意を!


今日、「食べない」人々というコラムを読みました。

食べない人に共通するのは、食べるために費やす時間やお金、それによって出る排泄物やゴミなどを最小限にしたいという発想のようです。

それにともなって体も健康になり、脳も活性化されるそうで、食べない人にすれば一石二鳥どころか、五鳥も六鳥もあるのだと思います。

僕もいつかそんな時期が来るのかなと、パンパンになったお腹を撫でながらハリーポッターを読んでいるような気持ちで、その記事を眺めていました。

ハリーポッターは読んだことがありませんけれど。

不食があるのなら、不眠も不性もたぶんあるのでしょうね。

よくよく考えてみるとお寺の住職さんとか高野山で荒行などをしている人なんか、それの典型なのかも知れません。

昔、光だけを食べながら生きているという人の本を読んだことがありましたが、さすがに寝ないという人を知りません。

訓練すれば1時間や2時間の睡眠でも生活を送れるのかも知れませんけれど、僕は食べることの次に眠っている時に見るの夢が好きなので、もし食べもせず、眠りもしなければ、生きている理由も見出せないと思います。

セックスについてはどうなんでしょう。

たぶん僕にとってのセックスは、性欲の解消や生殖活動といったものではなく、最上級のコミュニケーションなのだと思います。

おいしいものを味わっているときも、もしかすると食材や食器などと会話をしているのかも知れません。

人間は、何かとコミュニケーションをとらないと生きていけない究極の寂しがり屋のような気がします。

食べない人も、飽食の時代に対して、無言のコミュニケーションをとろうとしていると考えることが出来ます。

また難しい話になってしまいましたが、とにかくおいしいものを食べたいときに食べれることが、僕にとっては幸せのひとつなので、できれば死ぬ直前までそうでありたいと思います。

ラブソングのブをヴと平気で書く人が苦手です。

youtubeのコメントに同調して、それな! とか書く人も苦手です。

ネット上で、可笑しいときに草とか書く人はもっと苦手です。

僕が昭和の人だからですか。

いやいや、平成の人でも苦手だと思う人はいるはずです。

時代の波に乗ることは必要なのかも知れませんが、得体の知れない違和感が漂ってしまうのです。

寝ぼけてパンツを二枚はいているような。

いや、すき焼きなのに卵がないような。

違うな。

なんだろ。

しいて言うなら回送列車に乗っているような感じなのかな。

回送バスでもいいけれど。

そんな人たちに遭遇すると、なぜか悲しくなる自分がいます。

その人たちは、ぜんぜん楽しんでいるはずなのに。

それに乗って、どこまでいくんだろうっと心配になっているのかな。

別に目的地なんか定めなくても、とりあえず動くものに乗ってれば楽しいじゃない。

僕が悲しくなる人たちは、そんな風に思っているのかも。

それでもラブソングのブはヴにしないで欲しい。

発音にこだわるのなら、せめてLOVE SONGにして欲しい。

愛を語ろうとも謳おうとも思っていないけれど。

夫を殺され、一人残された婦人に葬儀などが片付いたら、誰にも告げずにのんびり休める場所で再出発をするようにとアドバイスする刑事がいました。

支配的な人の意見はとくに聞いてはいけないと。

ドラマの話なのですが、支配的な人という言葉がとても残ったので、今回の記事のテーマにしたいと思います。

自分は支配的な人ではないと誰もが思っているだろうと思います。

僕もその一人ですが、もし特定のパートナーが出来ると自分では気づかないところで、相手を支配しようとしているような気がします。

結婚生活を思い出してみても、わが道を行くといった感じで、相手に同調することが少なかったのではないかと思うのです。

逆に言えば、見えない圧力のようなもので、相手をコントロールしようとしていのかも知れません。

リピーターさんの中に10年以上も心療内科に通っていらっしゃる人がいます。

彼女は躁鬱病と診断されていて、油断をすれば自殺する可能性があるということで、担当医から引き続き治療を続けるようにと言われています。

担当医が支配的な人だということではなく、彼女が非支配的な人だなとお会いするたびに思うのです。

性格が優しすぎるために相手につい合わせてしまい、結果的に本人が疲れてしまいます。

相手の思いや環境などを考えると自分の都合で断れないと思い込んでしまうのです。

先日、彼女の義母がお亡くなりになったそうです。

朝晩、祭壇に向かって、遺影を眺めながら、亡くなるまでの対応の仕方がよかったのか、お母さんにつらい思いをさせてしまってたんじゃないかと考えてしまうと話してくれました。

僕は、お母さんは、喜んで亡くなったと思うべきであって、悩んだ顔を毎日見せられるほうが迷惑ですし、心配でおちおち天国で暮らせないと言いました。

悩むのは自己満足でしかないし、本当にお母さんのことを思うのであれば、笑顔で楽しい顔を見せるべきだと思います。

少し話が脱線してしまいましたが、支配的な人というのは、自分が正しくて、その考えを相手に押し付ける人のことだと思います。

僕は自分が正しいと思うように言いますが、相手に押し付けることはしません。

正しい答えは個人個人の中にあるので、自分の答えを押し付けるのは意味のないことであるし、逆に迷惑だと思います。

あなたの周りにもし支配的な人がいるのであれば、一度客観的にその人の生活を観察してみてください。

もしかするとあなた以上に不幸な生活を送っているかも知れません。

自分の人生は自分で決めるものです。

支配的な人のために生まれてきたのではありませんから。

昨年、大学時代、仲良くしていた同級生が亡くなりました。

卒業後も何度か会ったりしていたのですが、学生時代は僕の3倍ぐらいはお酒を飲んでいたのに、病気の影響でそのときは一滴も飲むことはありませんでした。

もしかするとすでにかなり悪い状態だったのかも知れません。

夫のちんぽがはいらないのとおまえの同級生がどう関係しているのかと思われるかもしれませんが、共通するのは、ちんぽが入れられない夫も、入らない妻も僕の同級生も教師だったということです。

教師として勤めることに苦労している夫婦をみて、まっさきに思い浮かんだのが、同級生だったのです。

ここで先生は大変な仕事ですねなどというつもりはありませんが、どんな職業であれ、様々な思いを持ちながら困難と向き合い、必死に生きているのだろうなと思ったのです。

それは専業主婦でも同じです。

この本のタイトルがあまりにもキャッチーなために、アマゾンでのレビューも性的なことに反応しているものが多かったのですが、全体を通してみてみると、著者のこだまさんの人格が形成されてきた過程を忠実に表現している作品といえ、セックスに依存した主婦の話ではないことだけは確かです。

夫のちんぽが入らないことや夫以外のちんぽが入ることは、ひとつのきっかけであって、様々な家庭で、形を変えて夫のちんぽが入らないといった現象があるような気がします。

夫のちんぽが入らないんです! と言いたいのに言えないといったシーンが何度も登場するのですが、言いたいのに言えないといったことなど、家庭を持つ主婦なら誰でもありそうに思います。

この本をもし手にすることがあれば、これは特殊な夫婦像を描いた作品としてではなく、状況が違っていたとしても、どこの夫婦にも存在しうることだと思いながら読むほうがいいような気がします。

実際、僕のところに来られる主婦のかたの話を聞いている感覚で本を読みましたから。

施術を受けたことによって、すっきりと問題が解決できるわけでもないというのも、この本の読後感に似ているような気がします。

アマゾンのレビューでは高評価と低評価がはっきりと分かれていましたが、たぶんこのブログを読まれているかたは、共感することが多いはずです。

読むことで気づきを得て、あなたの人生に役立ちますよなどとは言えませんが、自分の悩みが共感することで、少し中和されるかもしれません。

よかったらお読みください。

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