サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2016年11月

少し前に橋田壽賀子さんが、文藝春秋に「私は安楽死で逝きたい」というエッセイを寄稿されました。

今年の5月に転倒し、顔に大怪我を負ったことがきっかけで、顔の怪我だけでよかったが、もしその時に足の骨でも折って、認知症になっていたらと考えたことから、人とコミュニケーションがとれない状態になったら安楽死させて欲しいと思うようになったそうです。

安楽死と尊厳死は微妙に違っていて、前者は本人の依頼、または承認によって人為的に死なせることで、後者は不治の病で助からないとわかったときに無理な延命措置を行わず、自然に死を迎えることのようです。

どちらにしても生きているだけの状態を自らの意思で拒否しているということが共通しています。

認知症や不治の病にかかってなく、健康な状態であっても、ただ生きているだけという人もいるかも知れません。

生きているだけで素晴らしいと思えたらいいですが、ほとんどの人は自分の存在意義を見出すことが出来ないと死を意識するようになります。

自分は人に必要とされていない。
生きていても仕方がない。
自分の存在が人に迷惑をかける。
……。

話が少しそれますが、昨日、渡る世間は鬼ばかりの第一回目の放送を観ました。

泉ピン子さんの初々しさに驚いたのですが、それ以上に登場人物が会話をするテンポの速さと役柄に合わせた台詞の的確さが印象的で、どの俳優さんも生き生きしていました。

主役の泉ピン子さんが演じる五月(さつき)は、嫁ぎ先で姑にいびられながらも、一生懸命に生きています。

五月には尊厳という言葉など思いつく暇もないのかも知れませんが、その姿は尊敬に値します。

この脚本を書かれた橋田さんは、当時55歳なのですが、様々な立場の人物をコミュニケーションで浮き彫りにする才能がとてもすごいなと思ったと同時に、自分自身がコミュニケーションをとることができなくなった時の恐怖を誰よりも感じるのだろうと想像できました。

尊厳を説明するのはとても難しいし、普段から意識することでも無いのかも知れませんが、自分で主張するものではなく、互いに尊重しあうときに自然と生まれるもののような気がします。

尊厳を保って死ぬ為には、尊敬できる人に囲まれて死んでいくことが、重要かも知れません。

人間はひとりとして同じではありません。自分には無いものを必ず他人は持っているでしょうし、そこに着目すれば全ての人を敬えるはずです。

なんか神父さんの話のようになってきて、僕らしくなくなったので、今日はこの辺で。

今日はこの辺でシリーズが続いてますね。

英語のことわざに、“Actions speak louder than words.”というのがあります。

直訳すると行動は言葉よりも大声で話すということですが、行動は言葉よりも雄弁という意味で訳されています。

主にビジネス上で使われることが多く、口先よりも実践が大事で、まず行動しろといったことだと思うのですが、僕はこの言葉を聞いたときに一番最初に男女関係のことが頭をよぎりました。

全ての女性とは言いませんが、多くの女性は男性から愛情を言葉で表現して欲しいと思っていて、男性側からするとその簡単なことがとても邪魔臭くて照れくさいものに感じます。

欧米の男性なら呼吸をするぐらい当たり前に愛していると言えるのが、日本人男性には深海でスキューバしているときぐらいの苦しさがあるような気がします。

ちゃんと言ってくれないから、何を考えているのか判らない。

そんな風なことを考えて悩むことも多いかもしれませんが、もしそんなことで悩んでいる人がいれば言葉よりも態度で理解すべきだとアドバイスすると思います。

逆言えば、いくら言葉で調子のいいことを言っていても、行動が伴っていなければ、それを信用することはとても危険なことだと思うのです。

しかし、相手を好きだという気持ちが、その判断を鈍らせ、実態のない言葉にすがってしまうことがあります。

そして最後は自分が傷つくのです。

希望を持つことが悪いとは言いませんが、現実を直視し、希望的観測を排除することで、もやもやしたり、やきもきしたりなどの不安の発生頻度を抑えることが可能です。

ご主人や彼氏からの愛情を感じることが出来ないと思っている人は、一度相手の行動をじっくり観察してみてください。

もしかするとそこに愛情の種が隠されているかも知れません。

言葉よりも行動。

それは自分自身にも言えることです。

偉そうに書いていて、僕自身の耳が痛くなってきたので、今日はこのへんで。

もしも○○なら……

そんな風に思うことは、よくあります。

ほとんどの場合は、重要な選択を迫られたときや挫折したときに遡って、あの時、別の道を選んでいたら……、などと考えている時でしょう。

これまで、過去に戻ることも未来に行くことも出来ないのだから、そんなことを考えるのは何も意味が無いと思っていたのですが、よくよく考えてみると過去を憂うことも未来に期待を持つことも生きる為に必要なことなにかも、と、最近、思うようになりました。

いくら今を楽しめばいいと言っても、現実を直視してみて、とても楽しめる状況でなければ、一旦そこから逃避し、未来に期待を持つことで今を生きる為のエネルギーに変えることもあるはずです。

また、変えようのない過去を思い出すことは、自分の未来をいい方向に進めるために必要なことなのかも知れませんし、どんな過去であっても、今の自分を形成している要素のひとつであることに、間違いないはずです。

もし、あの時、○○だったら……。

そう思うのは、けっして後ろ向きではなく、むしろ前向きに生きる為の魔法の言葉だと思ってみてもいいかも知れません。

これからの人生を、自分の想像以上に楽しく送るための魔法の言葉。

過去を憂うのではなく、過去にもワクワクする。

そんな風に思うことが出来れば、これまでとは違う今を体験できるかも知れません。

運命を辞書で調べてみると、人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力などといった意味があります。

宿命とか定めとか、変えることが出来ない最初から決まっていることを想像してしまいますが、僕は少し違った考えです。

運命を僕の考えている意味を理解しやすくするために別の熟語に例えると、それは「完成」なのかも知れません。

たとえば映画の完成。

映画を作るときは、原作があったりオリジナルの脚本があったりして、そこから役者を選び、映像として完成させるために必要なロケ地であったり、技術スタッフ、資金調達などいろいろな要素が必要になります。

ハリウッドのような巨額の費用を使うものから、自主映画のようなものまで色々有るとは思いますが、完成するとひとつの作品となります。

ある程度の筋書きがあったとしても、撮影していくうちに最初の考えから外れていくこともあるでしょうし、まったく脚本を一から見直すといったこともあるかも知れません。

人生を考えてみると、生まれてから死ぬまで、きっちりした脚本が出来上がっている人はほとんど存在しないのではないでしょうか。

子供の頃に将来の夢を描いてみたり、自分が目指す職業のために大学や専門学校に入るといったことはあるかも知れませんが、それはその人の人生にとってほんの一部の要素でしかありません。

映画で言えばプロローグに過ぎないものです。

運命に逆らうといった言葉ありますが、逆らっている気がしているだけでそれは最初から筋書きに入っていて、長い人生というドラマのワンシーンでしかないような気がします。

人生の完成が死ぬ時だと考えてみて、もし明日死んだとしたら、その脚本はよく出来たものだったでしょうか。

運命の人と出会ったと思って結婚しても、その相手を嫌いになることもあるでしょう。

今回の記事で、僕が言いたいことは、運命とは完成したときに決まっていたんだと振り返ることが出来るだけで、今(現時点)は脚本を自由に書くことが出来る状態であるということです。

運命に悲観したりする必要もありませんし、逆らう必要もなく、そもそも運命そのものが現時点では、存在しないのです。

僕は性感マッサージという仕事を始めてから、すでに400人以上の女性と対面しています。

僕の人生の脚本が、4年ほど前に自分でも想像できないほどの大きさで修正されたようです。

目の前に今の生活に不満を抱えている人がいたら、それは運命ではなく、自分自身が描いた脚本通りの人生ですよと言うと思います。

運命に振り回される人はこの世に存在しない。

自分が世界の中心だと思えば、目が回ることも無くなるはずです。

もしかすると錯覚というよりも勘違いというほうが、ぴったりする内容かも知れません。

結婚相手に求める条件というのを調べてみました。

男女総合ベスト5は、

1.性格が合うこと
2.思いやりを感じること
3.癒されること
4.食事の好みが合うこと
5.収入が安定していること

です。

男女別にランキングすると微妙に変化があります。

男性ランキング

1.性格が合うこと
2.思いやりを感じること
3.癒されること
4.家事をこなす能力があること
5.自分の仕事を理解してくれること

でした。

女性ランキング

1.性格が合うこと
2.思いやりを感じること
3.収入が安定していること
4.癒されること
5.食事の好みが合うこと

だそうです。

男女総合ランキングと比べて、男性では「家事をこなす能力があること」、女性では「収入が安定していること」が、新しく入ったり、上位にきたりしています。

ここで考えたいのが、とくに男性の女性に求める条件で、家事をこなす能力があることです。

一見、当たり前のように思いますが、今の共働きが当たり前になっている生活状況を考えてみると、男性の願望は叶うことのないもののような気がします。

もしかすると妻に対して母親のような役目を期待している男性が多いのかも知れません。

子供が生まれると、互いに「お父さん」「お母さん」、「パパ」「ママ」と呼び合う関係になる夫婦も多いのではないでしょうか。

相手を母親のような存在としてみている限り、恋愛感情が湧くことはありません。

セックスレスになるのも、当然のような気がします。

家庭科の授業で、料理や裁縫を教えるのもいいですが、児童たちが適齢期になった時代を想定して、家庭内での心得のようなものを教えてもらいたいものです。

妻はけっして母親の代理ではないということを。

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