サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2016年05月

東山彰良さんの流(りゅう)という本を読みました。

第二次大戦から国民党と共産党が争っていた国共内戦を経験した祖父が殺されたことが、物語の基点となり、そこからの主人公の人生が描かれています。

台湾で育った主人公が、祖父が殺された原因を探るべく中国本土に行くのですが、その際に語った言葉がとても印象的でした。


人は同時にふたつの人生を生きられないのだから、どんなふうに生きようが後悔はついてまわる。中国に行っても後悔するし、行かなくてもやはり後悔する。

どうせ後悔するなら、わたしとしてはさっさと後悔したほうがいい。そうすればそれだけ早く立ち直ることができるし、立ち直りさえすればまたほかのことで後悔する余裕も生まれてくるはずだ。


このブログでは、よく後悔をしない人生を送りましょう的なことを書きますが、どんなに頑張っても後悔しない人生など送れないのかも知れないなと最近思うようになりました。

何を選択したところで後悔するのであれば、本の主人公のように僕もさっさと後悔してしまうほうを選択するはずです。

次に後悔するための余裕を確保するために選択を早めようとは思いませんが、何も行動を起こさず、死ぬ前にひとつの後悔をするよりも、後悔をたくさんした人生のほうを選びたいです。

ワイドなショーを観ていたら、モンスター老人というのが増えているという話になりました。

モンスター老人というのは、あまり理由も無く、他人に迷惑をかける老人をさすようで、認知症のように自分で理解できない状態ではなく、意図的に被害を及ぼす人のことです。

いらいらして近所の車をパンクさせていったり、ムカついた子供の首をしめたりなど、理解しがたいことをします。

いくつかそういった例を挙げていたのですが、そのほとんどが60代ということから、老人というよりもリタイアした高齢者というカテゴリで、コメンテーターが行動を分析していました。

仕事中心の生活から何もしなくてよくなる生活に変わったことが、大きな原因ではないかと話していました。

人間が生きていくために必要なものは、心の拠所だと思います。

リタイアして他人に迷惑をかける人は、その拠所がなくなったような気がします。

僕の拠所は、子供であり、頼ってくださる依頼者の人たちです。

もしその二つが突然なくなってしまったら、生きている意味を見出せなくなるような気がします。

実際、精神病院から退院し、社会復帰できるようになるまでの二年間というのは、死ぬことばかりを考えていました。

拠所を無くすと、犯罪を起こしがちです。自殺も殺人のひとつで、間違いなく犯罪です。

今から思うとその二年間は、拠所を探す時間だったのかも知れません。

心の拠所をもし失ってしまったら、また新たな拠所を探すしかありません。

その間はとても苦しいかも知れませんが、峠の茶屋のようなもので、歩き続けていればきっと見つかるはずです。

立ち止まらず一歩ずつ前に進んでみてください。

心は臆病だから、それを麻痺させるための呪文にAal Izz Well(アール・イズ・ウェル)というのがあります。

インドで夜警をするときに使っていたそうなのですが、その言葉がテーマとなる映画「きっと、うまくいく」を観ました。

人生は、本来の自分が描く小説みたいなもので、自分が思い描くままの人生になるとこのブログでよく言っていますが、僕はハッピーエンドになると決めています。

きっと、うまくいくというのも、同じことなのだと思います。

この映画は、2009年にインドで製作され、2013年に日本で公開されたのですが、今日、これを観たというのも、自分の小説に仕組まれたエピソードだと勝手に思っています。

これまで観た映画の中で、好きな映画を三つ挙げろと言われたら、間違いなくそのうちのひとつになります。

もうひとつは、トムハンクス主演の「ビッグ」かな。あとのひとつは決めきれないです。

この二つの映画に共通するのは、一般的な社会常識に捉われ、苦しむ人を生み出す社会構造に対して、素直な心でまっすぐに現実と向き合うという姿勢かも知れません。

素直な心になるためには、臆病になってしまう心に勇気を与える必要があります。

アール・イズ・ウェルは、臆病になる感覚を麻痺させる効果があります。

生きていくと様々な選択を迫られ、その都度悩み、苦しむことの連続なので、そんな場面に遭遇したら、アール・イズ・ウェルと唱えてみてください。

きっと、うまくいくはずですから。

我慢と自慢。

我慢強いという言葉は、どちらかという肯定的に捉えられます。

自慢は、のど自慢を除いて、日本の社会の中では、肯定的に捉えられることはありません。

今回のタイトルを「我慢」にした理由は、施術依頼をする既婚女性の多くが我慢をしているなと実感したからです。

特にこの人と話をしてそう思うようになったというわけではなく、我慢をしている話をずっと聞いているうちに、蛇口から漏れる水を受けていたバケツが、いつのまにかあふれ出してきたような感覚に近い気がします。

今回の記事に先駆けて、「慢」という言葉を調べてみました。

ウィキペディアでは、「慢」というのは仏教用語のひとつで、キリスト教でいうところの傲慢(ごうまん)に当たるそうです。

慢の起源を調べてみると、我慢も自慢もそれほど差がないことが判りました。

我慢というと耐え忍ぶといった意味を想像しますが、本当は我がままよりももっとたちが悪く、相手をみくだすような意味になります。

夫の非常識な行動や愛や優しさのない言葉に傷つきながらも、子供や周囲の人のために耐えて過ごすことも、もしかすると単に自分の傲慢さが原因なのかも知れません。

そんなことを言うとたくさんの既婚女性から非難を浴びてしまうかも知れないのですが、僕はもともと我慢をしない人生を送るべきだと思っているので、辛らつな表現で記事を書くのもありかなと思います。

自分が中心の世界を楽しく過ごそう!

それが僕の生きるテーマではあるのですが、我慢が必要でないと思う理由が、我慢というのは、相手の存在を意識しなければならないということにあるのかも知れません。

相手を見下しているから駄目だといったわけでなく、そもそも他人に左右される人生を送ることに何の魅力も感じないからです。

ずっと我慢していればいつか花が開くのかも知れません。

でも、

我慢しなくても、開く花もたくさんあるということに気づいて欲しいです。

感情が湧く一番の理由は、未知と関連しています。

僕は不動産業に従事していた頃、住宅ローンの支払いに悩む人からの相談をたくさん受けていました。

自分の家が、なくなってしまうかもしれない。

怖い取立てが来るのかもしれない。

ある日、突然家を追い出される。

自分や家族の未来がまったく予測できないときに不安を感じるのです。

内容を聞き、これから先に起こると予想される内容と時期を説明すると彼らから安堵の表情を伺うことが出来ます。

競売にかけられて、大切な家がなくなってしまうという事実を知らされるよりも、未知のことに恐れるのです。

結婚生活でも同じです。

我慢しながら結婚生活を続けたくはないけれど、離婚をすればその先の人生が予測できないということに苦しみます。

不倫が嫌なのではなく、ばれるかも知れないといった不安や相手から慰謝料などを請求され、責められるかもしれないという恐怖と戦うのです。

それは実際に起こった現実ではなく、全て未知のことに感情が揺さぶられています。

大切な人を亡く(無く)した場合も同じで、亡く(無く)したという事実よりも、その人がいない未来の生活を想像して悲しむことになります。

不安や怒りや悲しみなどの負の感情だけでなく、楽しさや喜び、期待などの感情も同じく、体験していない未来を想像することで湧き上がります。

映画や読書なども、先を知りたいというワクワク感が高いほど、終わった後の満足感に差が出ることでしょう。

男女の関係を良好に維持しようと思うのであれば、悪い部分は先に出してしまって、いい部分を小出しにするべきかも知れません。

未知の部分を増やす努力も有効だと思います。

↑このページのトップヘ