サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2016年03月

もう二・三年ほど前から、一番下の息子が肩車をされることを嫌がるようになりました。

上の子供はとっくにというか、最初から嫌がっていたのですが、一番下にはよくせがまれ、疲れた体に鞭打ちながら両脇を抱えてそのまま持ち上げ、股に頭を通すと言うのが休日の過ごし方の定番となっていたことがあります。

拒絶するのは別居してあまり会わなくなったということも原因かも知れませんが、彼自身が成長し気恥ずかしいという気持ちが芽生えたせいだと思います。

この四月から小学校六年生になります。

ところで肩車をしてもらいたいという気持ちはどうして起こるのでしょう。

親とのスキンシップや普段見ている光景と違った光景を味わえるなどといった理由が考えられますが、一番の理由は自分が人を介して地球から離れていることによる高揚感や安心感などではないかと思うのです。

乗り物に乗っても地球から離れていることには間違いないのですが、機械をはさんでいるのと人間を挟んでいるのとではまったく違う体験をしているような気がします。

まったく根拠のある話でないので申し訳ないのですが、たぶん地球からのエネルギーがいったん別の人間を通して自分に流れているというようなことが起こっているのではないかと思います。

肩車だけでなく、胴上げやおんぶでも何とも言えない気持ちになります。

女性が一番実感できるのは、お姫様抱っこではないでしょうか。

抱きかかえてくれた男性の力強さを実感できるからというよりも、たぶん抱えられた瞬間に自分ひとりで立っているときとは違う別のエネルギーを感じているような気がするのです。

僕はお姫様抱っこをされたことがないので、あくまでも想像でしかありませんけれど。

電池を直列に並べると力が増すといったものに近いのかも知れません。

是非体験してみたいというかたは、施術の際に申し出てください。

たぶん七十キロぐらいまでならなんとか上げられるような気がしますので。

肩車なら八十キロぐらいまでいけるかな~~。

大阪の桜はまだ蕾のままですが、暖かくなれば一気に咲くような状態で、スタートの合図を待つ選手のようです。

ところで人間に対しても日ごろの努力が開花するとか才能が開花するなどと使われていますが、桜にとっての気温のように人間も花を開くために適した状態というのがあるような気がします。

いくら努力を重ねてもうまくいかないのは、もしかするとまだその時期が訪れていないだけなのかも知れません。

果報は寝て待てという言葉があるように、自分の人生で何度花が開くかはわかりませんが、桜が毎年咲くように必ず開く時期が訪れると信じて慌てないようにすることも必要ではないでしょうか。

時期と書くと時間を想像しますが、四月になれば必ず桜が開花するとは決まっていないように、時間ではなく開花するための条件が整った状態のことを時期だと考えてください。

人間にとっての時期とは、人それぞれだと思います。

結婚や出産などうれしい出来事がきっかけとなることもあれば、家族の死や離婚などといったことで、開花する時期が早まることがあるかも知れません。

僕は性感マッサージ師としてまだ蕾にもなっていない状態なので、開花するのかどうかも判りませんが、もし開花したとしたら未来のどんな出来事が要因になるのだろうと桜の木を見上げながら考えていました。

この週末は、先の出来事を想像するよりも、必ず開花するんだとワクワクしてしながら花見酒を楽しみたいと思います。

五感とは、味覚・嗅覚・聴覚・視覚・触覚に分けられるのですが、厳密にいうと全て触覚になるそうです。

最近の記事は、野口三十三さんの本「原初生命体としての人間」に書かれているものを参考にさせていただいているのですが、今回の「触覚」についても、僕なりの考えを加えて記事にしようと思います。

野口さんの考えによれば、脳も皮膚の一種であって特別なものではなく他の箇所と役割が違うだけで同じものだそうです。

味覚も嗅覚も聴覚も視覚も受容体の差によって分かれるだけで、基本的な原理は地球で最初の生命体が感じていたものと同じです。

かなり難しい話になっていますが、簡単にいうと目に見える見えないに関わらず、触れる触れられるということによって何かを感じ取っているのです。

この本を読み出すようになってこれまでと施術の際に考えることが変わってきました。

これまでなら五感にどのように訴えていくのが、相手にとってベターなのかということを常に考えていたのですが、今はそういった小手先のことではなくひとつひとつの細胞が喜ぶようになるにはどうしたらいいのかと思うようになりました。

外国では、接吻・抱擁・握手が友好関係を表す当たり前の表現になっていますが、人間としての形が出来上がったことによる本能的な動作なのでしょう。

よくこのブログで、セックスの際のキス・ハグ・手をつなぐことの大切さを訴えていますが、たぶん人と人とがつながるための自然な行動だと今更ながらに気づいたのです。

原初生命体というのは、アメーバーよりももっと昔の生物のことなのですが、難しいのでアメーバーを想像してみてください。

アメーバー同士や周りの環境によって影響しあうことで変化をもたらし、そういった変化が何十億年(地球最初の生物は三十八億年前に誕生したと言われています)も繰り返されて人間になりました。

人間になったから特別な能力を持ったのではなく、最初から感じるものを持っていてそれが生きるための効率化を図り、様々な受容体が出来上がってきたと考えられます。

五感による情報に振り回されることが多いですが、もともとあった触覚が感じ取る情報量というのはたぶん五感のそれとは比べ物にならないくらいに大量だったはずです。

直感というのも、もしかすると触覚の一種なのかも知れません。

ますます心に触れてみたいと思う今日この頃です。

天使が一人死ぬとか、幸せが逃げるとか悪い印象をもたれている溜息ですが、呼吸のバランスが悪くなり、中途半端に吸った空気を出すことによって、体を正常にリセットするという役目があるようです。

超前向きなポジティブ思考の上司やリーダーの前で溜息などをついていたら、怒鳴られるといった印象があり、マイナスのイメージがどうしても湧いてしまいます。

しかし綺麗な景色を観たり、憧れの人に遭ったりしたあとにも溜息がでます。

溜息は生理現象のひとつであり、善悪で判断するものではないということです。

パンチや重いものを持ち上げるなど、力を出すときや細かな作業に集中するときは息を吸いながらでは出来ません。

呼吸という誰もが無意識にしている行為だからこそ、その意味を考えることも必要だと思います。

呼吸とは、呼気(はく)と吸気(すう)のことですが、呼が先に来ているのはそれだけ「はく」(出す)ということが大事だからです。

僕たちは、お金を儲けることを考えることはするけれど、それの使い道を考えることはあまりしないことや、食べることには執着があっても排便には気を使わないといったことも同じで、アウトプットにあまりにも気を使わないで生きています。

溜息は溜まった息を自然に出してくれていることを喜ばないといけないかも知れませんね。

疲れは精神的なものと肉体的なものの二つに分かれると思います。

疲れた~! と、言えるのはほとんどが肉体的なものでしょう。

また、疲れといっても重いものを持ったり、走ったりして体の疲れを実感できるものと金属疲労のように知らず知らずに蓄積しているものに分けられるような気がします。

疲れはたぶん一種類ではなく、この分類した四つが、絡み合っているはずです。

同じ運動量であっても、楽しく能動的に動いた結果の疲れとその逆ではまったく疲労度が変わってきますし、回復する時間も違ってきます。

僕はよく依頼者のかたから疲れるでしょうねと言われるのですが、僕自身はまったく疲れたと思うことはありません。

肉体的な疲れはもちろんあるのかも知れませんが、仕事をしたくないなと思ったり、施術に支障が出るほどひどくなることもありません。

肉体的な疲れの場合は、筋肉に乳酸がたまり動きが鈍くなるという状況になる場合もありますが、精神的な疲れの場合は何かが抜けていっているような気がします。

心がへこむとか、しぼむという表現からも想像できます。

抜けているものが何かはわかりませんが、ぎゅっと抱きしめると心が膨らむことがあるようなので、たぶんそれは体内の中に別の場所に移動しているのか別の物質に変化しただけなのかも知れません。

精神的な疲労は、心が氷のように固まった状況になり、人に悩みを話したり、スキンシップをとったり、自分の好きなことをすることで、融けていくような気がします。

落ち込んだときは、塊が出来ていると考えてみると回復は意外と早いかも知れません。

↑このページのトップヘ