サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2016年02月

リピーターさんからこのブログの記事を見て元気が出ましたというメールをいただきました。

残念ながら僕のブログではなく、心理カウンセラーの心屋仁之助さんのブログです。

心屋さんの発信しているものは、これまでも興味深く拝見していたのですが、今日の記事は、依存について語られていました。

依存することはよくない、自立をするべきだという世間の風潮、特にカウンセリングなどでは当たり前のように言われていますが、心屋さんに言わせると依存しないで生きるべきだと言っている人は、自立することに依存しているそうです。

誰にも弱みを見せれなくて、本人はきっと苦しんでいるのではないかということで、依存する人もしない人もいろんな人がいていいんだという内容でした。

僕も自分の人生は、自分が主人公であるのだから、思うままに生きていけばいいと思っているのですが、人に依存しながら生きるのは自分を見失う可能性が大きいと思うんです。

たぶん依存にもいい依存と悪い依存というのがあって、自分を見失うぐらいの依存は、アルコールや薬物に依存するのと同じで、本来の自分に戻るためにたくさんの犠牲を払わないといけないのではないでしょうか。

自分がもし依存体質だと思うのであれば、依存をしているかどうかではなく、依存することで、人生が豊かになっているのか、あるいはそうではないのかを判断することが大切だと思います。

最後に別のリピーターさんから胸に残る言葉をいただいたので、紹介したいと思います。

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自分らしく生きるのに遠慮なんていらない

自分の人生なんだからわがままに過ごしてもいいんじゃないでしょうか。

昨日の続きのようなタイトルになってしまいましたが、今回はバレンタインデーの想い出ではなく、映画の感想です。

母親が麻薬中毒で刑務所に入れられ、一人残った知的障害の男の子にゲイカップルが愛情を注ぐ話です。

設定は今から約40年ほど前のアメリカで、今もそれほど同性愛について理解があるとは思えませんが、もっと偏見に満ちた社会での出来事を切り取っています。

この物語の主人公である知的障害(ダウン症)を持つマルコはハッピーエンドの話を聞くこととチョコレートドーナツを食べることが大好きで、そんな彼を通して、母子家庭、麻薬中毒、同性愛、知的障害といった問題を考えさせる内容になっています。

正義だとか社会のルールだとか、倫理だとか道徳だとか、親の愛情だとか、もっともらしい理屈がゲイカップルに襲ってくるのですが、まっすぐな愛には何物も勝つことが出来ないと再確認できます。

映画の最後に一番愛情を注いでいた母親代わりの男性が歌を歌うのですが、その歌詞がとても胸に響きましたので、ご紹介します。

「人は皆、誰でも守られるべきだといい その一方で打ちのめされろという」

是非映画をご覧になって、この意味を肌で感じていただきたいと思います。

小学校5年生のときに、クラスでそれほど可愛くないというよりも、どちらかというとブスと言われていた女の子が近づいてきて、不二家のハートチョコレートを僕の目の前に差し出しました。

僕は4年生まで天才と言われるほど何故か勉強が出来ていて、クラスのみんなから一目置かれていたのですが、5年生になり、親の都合で1学期だけ別の小学校に行ったために、その後の人生が変わりました。

田舎の小学校で、食べ物がおいしかったせいかどうかは判りませんが、その3ヶ月でかなり太ってしまい、見る影もない容姿に変貌。

2学期に元の学校に戻ってみると勉強の進み具合が違っていたのか、まったくちんぷんかんぷんで、もともと運動は得意ではなかった僕は、勉強も運動も出来ないただのデブとなってしまったのです。

そんな僕にチョコレートを差し出してくれる彼女は輝いて見えたのですが、彼女の口から僕の友人に渡して欲しいという言葉を聞いたときに、僕の緊張した顔がぎこちない笑顔に変わっていました。

放課後、渡したことを彼女に報告すると、ひとつ余ったからあげるわ! と言って、不二家のハートチョコレートをくれたのです。

生まれて始めてバレンタインデーにチョコレートをもらったので、廃品回収のようないきさつなどどこかに飛んで行き、その頃はまだホワイトデーもなかったと思うのですが、文房具屋さんに行ってあれこれ悩みながらお返しを選んでいたことを今でもハッキリと思い出します。

緑の透き通った20センチの定規と鉛筆と消しゴムをはにかみながら渡しました。

このブログで初恋は小学校1年生だったと書いたと思いますが、異性を意識したのはこの瞬間だったのかも知れません。

今の前田貴久が誕生したのは、41年前のバレンタインデーということにしておきます。

いつも同じようなダメんずと付き合って苦労する女性がいます。

理由は二つです。

1.ダメんずが近寄りやすい
2.ダメんずにしてしまう

男女の関係だけでなく、同性でも波長の合う人同士がひっつくのは、当然のことです。

おたく風の人の友達はたいていおたく風ですし、体育会系であればそれっぽい人が友達になります。

あなたがもしダメな男しか見つけられないのであれば、言いにくいですがあなたがダメな人の可能性がとても高いです。

対等な付き合いだけでなく、ビジネスの世界でも当てはまります。

僕の施術料金は、他の施術師と比べると少し安い設定になっているようですが、始めた頃はもっと安く設定していました。

あるときにお客さんから安すぎると言われて金額を上げたのですが、それ以来お客さんの層が変わりました。

正確には変わったのではなく、絞られたのかも知れません。

自分に条件をつけるとそれに合った相手しか近づいてこないはずです。

条件をつけるというのは、具体的に相手にこういった条件をクリアしていないと近づいてはいけませんと言うのではなく、自分が放つ波長に気をつけることです。

一番大切にしなくてはいけないのは自分自身だと思えるようになれば、相手を失う恐怖によって、相手に依存するようなことはなくなります。

そうすることで相手も依存体質ではなくなるはずです。

相手に何かしてあげたいと思う気持ちを持つことはいいことだと思いますが、度がすぎると水を与えすぎて枯らしてしまうようなことになります。

男運が悪いと思っているのであれば、原因はまず自分自身にあると気づくことが必要です。

昭和の時代によろめきドラマという言葉が流行していたことがあります。

今でいう不倫ドラマのことですが、夫を持つ妻が別の男性に惹かれるさまをあれやこれやと描くドラマのことです。

美徳のよろめきは、よろめきという言葉を流行らせた小説で、主人公の節子が土屋という男に好意を抱き、肉体関係になり、妊娠、堕胎から別れるまでを描いています。

僕はこの本の八割ぐらいを読んでいるときに、作者はとても女性を馬鹿にしているのかなと感じて、少し気分が悪くなっていました。

何不自由なく育てられ、理想的な結婚をした女の知恵のあさはかさを嘲っているような気がしたのですが、最後まで読み、当時の時代背景などを考えてみると、まったく別のことを主張していたのだと理解できるようになりました。

印象的だったのは、男に愛情を感じられなくなった節子が、今後の身の振りかたについて二人の人生経験が豊富な人にアドバイスをもらう箇所です。

年配の男性と女性の両方からの意見は、現代でも通じるようなとても中身のある内容だったのですが、それを聞いた節子の捉え方には、思わず笑ってしまうものがあります。

節子のその態度を著者は次のように喚起しています。

「ただ盲目であるときはまだ救われ易い、本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を意識しはじめて、それを楯に使いだす場合である」

自分は恋をしており、そのために盲目であるのだから、目をつぶりながら行動するのは当然なのだいう理屈を堂々と宣言する節子がそこにいます。

六十年近く前に出版された本ですが、今も昔もそれほど変わっていないのだということを再確認する本でした。

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