サロゲートパートナー

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2015年10月

それを言っちゃあ、お終いだよ!

亡き、渥美清さんが演じたフーテンの寅さんの名台詞ですが、今の世の中では、幸か不幸かお終いになるような言葉を吐く人が少なくなりました。

たぶん時代が進むにつれ、もっと減少していくことでしょう。

ぬるま湯に浸かっているような世の中だと言いたい訳ではないですが、僕が生きてきたほんの数十年間の間だけでも、どんどん棘のある言い回しや角が立ちそうな表現は無くなってきています。

テレビ番組の放送内容が問題になったニュースでは、よくBPOという言葉を目にします。

BPOというのは、放送倫理、番組向上機構の略なんだそうですが、もともとは1969年に設置された、放送番組向上協議会と1997年に設置された放送と人権等権利に関する委員会機構が、2003年に合併された組織です。

設立当時は、放送と人権に関する委員会と放送と青少年に関する委員会で構成されていたのですが、現在はそのふたつに加えて、放送倫理検証委員会が加わっています。

番組を向上させるために出来た機構であるにも関わらず、面白いなと思う番組は減少する一方だと感じている人は僕だけでは無い筈です。

番組の質を向上するということと、倫理を重視するということは、本当は共存できるはずなのに、現代ではどうしても過剰なまでに倫理を重視する余りに、とても焦点のぼけた番組が氾濫するようになったと思います。

テレビだけでなく、今日のヤフーニュースを眺めていると、モーニング・ツーという月刊誌に掲載されていた「ヒモザイル」という漫画が休載となり、少し前には「境界のない世界」という漫画が出版社の判断で単行本化を見送られてしまうことになりました。

どちらも少数の読者を不快にさせる要素があるということが原因だと理解しているのですが、そもそもすべての人に納得してもらえるようなものが、コンテンツとして商業価値があるのかどうかが疑問です。

ビジネスを行ううえでは、それを一番重要視しなければいけない時代なのかも知れませんが、いろんな人たちのフィルターを通り抜けてきたものというのは、はっきりいって、毒にも薬にもならないものです。

しかし、それらの原因を作っているのは、提供する側ではなく、僕たちです。

少し前の記事で、人間は常に多数に流れるといった話をしたと思いますが、その影響かどうかは判りませんが、誰が言い出したか判らない風評により、社会全体がどんどん窮屈になっています。

僕は、常に本音で過したいと思っていますが、知らず知らずにそういった社会の風潮に影響を受け、考えや話し言葉を選択しているような気がします。

本音で話しているようでも、厳密にいうと建前が一人歩きするのです。

僕は、基本的に世の中に対して、批判するつもりなどないので、改善させようと立ち上がろうという気持ちなどまったくありません。

自分さえ楽しく毎日を過すことが出来れば、それで満足なのです。

理想は全世界の人たちが、僕と同じように自分さえ楽しく過す! と、いった気持ちを持ってもらうことなのですが、現実はそう簡単にはいきません。

本音と建前、理想と現実、もともと線引きするほうが難しいテーマだったのかも知れません。

更新頻度をあげるとどうしてもネタがなくなってきて、歯磨きチューブを搾り出すような感じでテーマを決めることがあります。

そうすると自分では気づかないうちに、読まれる人にとっては、僕の身の回りに何かおきているのかなと心配させる内容になっていることがあるようです。

僕の精神状態に支障が出るような事件に巻き込まれているのではないかと心配してくださるかたもいます。

これまで旅日記などで、暴飲暴食のイメージを焼き付けてきて、自業自得なんだとは思うのですが、僕は皆さんが思っているほど、破天荒な生き方をしているわけでも、アルコール中毒になるほど依存しているわけでもありません。

その点だけは、この場を借りて釈明させてください。

性感マッサージ師になって、この3年間というもの、二日酔い以外で体調を崩したことはありませんので、ご安心ください。(いい年をして二日酔いになるのもどうかなという意見もありますが……)

また精神的に病んでいるとか、落ち込んだということもまったくありません。

どうか、心配しないでいただきたいと思います。

ということで、今日は本当にネタが無いので、この前、温泉に行った話しを書こうと思います。

たぶん今日で、このブログの記事としては581番目となるのですが、一番どうでもいい話です。

ご存知かどうかは知りませんが、裏施術日記というものを書いていて、そちらで掲載すべき内容なのですが、批判を恐れず書きます。

とても前置きが長くなりましたね。それでは、はじまりはじまり~。

銭湯でなく、少し大きめの温泉になると洗い場が背中合わせになっていることがあります。

椅子に座ると正面に鏡があって、その下にお湯がでるカランと大抵、鏡の右斜め上にシャワーヘッドが設置されています。

シャワーヘッドは、受け金具に置かれていて、お湯を出すとそのまま頭が洗えるように計算された角度に配置されているのですが、おかしなことに僕の背中にあきらかに背中合わせの人のシャワーのお湯がかかってくるのです。

僕は顔を下にして頭を洗いながら、後ろの人からシャワーのお湯をかけられる場面を想像していたのですが、背中にあたっている水量から考えるとどうしても答えを出すことが出来ませんでした。

相手がわざと僕の背中に向けてシャワーを向けている以外は。

とりあえず頭のシャンプーを流し、その答えを知ろうと後を振り返りました。

そこには少し腰のまがったおじいさんが立っていて、逆さまにしたシャワーヘッドを右手で持ち、お湯のいきおい全開で、股間(特に玉の下側)に当てていました。

玉越しのお湯が僕の背中にピンポイントで命中していたのです。

年越しのお蕎麦は食べたことはありますが、玉越しのお湯は初めてです。

生まれてはじめての経験で、驚くよりも先に喜びが湧きあがりました。

と、言いたいところですが、単純に心の中で、ひぇ~~と叫んでいました。

股間の石鹸を落とすのであれば、わざわざシャワーを下から当てる必要も無いわけで、もしかすると玉さんというのは、僕の希望的観測でしかなく、肛門様を狙っていたのではないのかと第二の推理をしてみました。

セカンドオピニオンというやつです。

そのおじいさんにすればとても気持ちがいいのでしょけれど、僕からするとどちらにしてもあまり気持ちがいい話ではありません。

たぶんあの光景は、一生僕の脳裏から消えることはないでしょう。

他の人に被害がいかないことを祈りつつ、本日の記事を終了したいと思います。

こんなので、ほんますんません。

昨日、地下鉄の駅構内で、旅客機内のビジネスクラス用の席を紹介するポスターを見ました。

洗練されたデザインと上質な素材で作られたそのシートなら、さぞかし気持ちよく空の旅を送れるのだろうと想像できるポスターでした。

お金に余裕があればビジネスクラスもファーストクラスも一度は体験したいと思うのですが、完全個室のファーストクラスでも、駅前のカプセルホテルほどのゆとりはありません。

眠るという行為だけで考えると、数千円のカプセルホテルのほうが断然快適なことでしょう。

しかしファーストクラスを利用したことを自慢する人はいても、カプセルホテルを利用したことを自慢するのは、日本に旅行に来た外国人ぐらいです。

僕たちは、自分の絶対的な基準というものよりも、相対的な基準で物事の価値を決めています。

松・竹・梅のうな重があれば、梅を選ぶことがなんとなく恥ずかしく感じます。

特上・上・並のうな重なら並を選ぶことにそれほど抵抗はありません。

誰にも教わったわけではないのに、梅は上・中・下の下と判断しているのかも知れません。

普通ならいいけど、それより下は敬遠してしまうのでしょう。

一億総中流時代から、低所得者が主流になっている時代に変わってきていますが、多数に属しているということで、低所得でも安心している人もいるのではないかと思います。

こういった自分が持つ基準というのは、とても曖昧で、そのときの時代背景や環境によって大きく左右されます。

金・モノ・サービスに限らず、人に対する基準も同じです。

自分の夫の稼ぎが、近所と比べて少なければ不満が出るし、同じくらいなら安心し、家庭内も近所づきあいもうまくいきます。

もしかすると不倫や浮気に対しても、それらが当たり前のことになると、浮気に悩む必要がなくなるような気がします。

NHKの朝のドラマでは、江戸末期の話がされていますが、その時代の日本では、恋愛結婚などといったものは、ほとんど存在しなかったのかも知れません。

100年前と今とでは、結婚に対する意識がまったく違っています。この先の100年で大きく変わらないと考える方が無理があります。

僕が始めた3年前に比べて、女性専用の風俗がかなり増えています。想像ですが、風俗だけでなく、不倫や浮気も比例して増えているのではないでしょうか。

僕は、民主主義の多数決という考えかたについては、あまりいいと思わないのですが、多数に従うという人は多いことでしょう。

不倫や浮気が当たり前になってしまうと、結婚というシステム自体の変革が必要になることでしょう。

もしかすると100年後ではなく、10年後には劇的な変化を遂げているのかも知れません。

20代後半に精神病院に入院した話は、このブログでも何度か書きましたが、入院していたときよりも、退院してから社会復帰するまでがとても大変でした。

普通に働けるようになるまで2年ほどかかりましたが、その足がかりとなったのが伝言ダイヤルだったのです。

退院してから数ヶ月して親の勤めていた会社に入社させてもらったのはよかったのですが、見習いとして先輩に同行する毎日で、会社のお荷物になっていました。

その会社の社長は、僕が入院する際にも同行してくださり、事情を把握されていたので、時間をかけてでも社会復帰させようとしてくれていたのだと思います。

焦る必要は無かったはずなんですが、常に誰かから後ろ指をさされているような気がして、仕事らしいことは何もしていないにもかかわらず、常に何かに追われながら毎日を過していました。

それでも勤めだして数ヶ月が経ち、ある仕事を任されることになりました。

今から思うととても些細なミスをしたのですが、当時の僕は取り返しのつかないことをしてしまったと思い、貰ったばかりの給料を持って失踪しました。

2週間ほど東京の街を彷徨い、お金が尽きたところで知り合いの家に転がり込み、その知り合いが親に連絡してくれて、家に戻りました。

それからは部屋から出ることも無く、いわゆる引きこもりとなりました。うつ状態になっていたのかも知れません。

毎日、母親が忙しい中、部屋のふすまの向こうに食事を置いて行ってくれ、家の中に誰もいなくなったのを確認してから、ふすまを開けて食事をしていました。

ふとんはずっと引きっぱなしで、食事やトイレ、通院して薬をもらう以外はほとんど寝ていたように思います。

とにかく人と接することがとても怖かったのです。

もう二度と普通の生活には戻れない。

僕の頭の中にはいつもそれしかありませんでした。

医者からもらった薬をためて、一気に飲んだこともあります。全身がとても痒くなっただけで、ほとんど何も起きませんでした。

失踪したときも、富士の樹海に迷い込めば死ねるかなと考えてはみたものの静岡で下車せず、結局東京で散財しただけで終わったのです。

死のうと思ったのも結局は自分に言い訳するためのパフォーマンスでしかないんだとわかると悩むことすら馬鹿らしくなっていました。

それから通院を止め、薬を飲むことも止めました。

そんな頃にNTTの伝言ダイヤルの存在を知ったのです。何がきっかけで知ったのかは覚えて無いのですが、そこには自分以外の人たちが生きている証がありました。

テレビや映画などでは感じることの出来ない、世の中との唯一の接点のように感じました。

今もそうなのかも知れませんが、当時の伝言ダイヤルは、mixiやfacebookなどのSNSの電話版みたいなもので、特にテーマがなく好きなことを伝言するチャンネルもあれば、コミュニティのように趣味の合う人が集まるチャンネルもありました。

最初は、ずっと人が喋るのを聞いていたのですが、そのうちに伝言を残すようになり、最終的には自分で競馬のコミュニティまで立ち上げ、オフ会にも参加するまでになりました。

自分の過去を気にすることなく人と接することが出来るようになったのです。

20年以上が経過した今でも入院した話をするときは、肩に力が入ります。でも、その経験がなければ今の自分はいないということも事実なので、肯定的に捉えるようにしています。

人と接するのが怖かった人間が、相談をされる側にいるというのも不思議ですね。

たまにいろんな人の悩みを聞いて、一緒に落ち込んだり、自分も疲れたりすることはないですかという質問をされることがあります。

僕は、まったくありませんと返答します。

先日もそんな質問があり、色々と考えて、悩む人を溺れている状態だと仮定して、僕の場合は一緒に溺れるようなことはしないと回答しました。

悩む人の中には、同情して欲しいという人がたまにいるのですが、同情したところで現状から変わるわけでもなく、それどころか一層その気持ちを増幅させるような気がするので、僕はそんな人に対しては冷たいと思われても同情することはありません。

溺れている人の近くでボートに乗っているような状況を自然に頭に描いているのかも知れません。

訳もわからずただ手足をバタバタさせて溺れているのであれば、まずボートを目指してくださいと言います。

ボートに上がったところで話をしましょうと。

その言葉を受け入れられない人というのは、たぶんバタバタして溺れることが好きな人だと思うので、僕の立ち入る余地はないと思うのです。

それはそれで、その人の生き方だと。

昨日の記事で廃業したということを書きましたが、廃業した仕事で僕は長い間、バタバタして溺れかけていました。

いや、もしかすると溺死していたのかも知れません。そのお陰で、今の新しい人生が生まれたと思います。

たぶん痛い目をみないと気づかない性格なのでしょう。

あなたは現在溺れかけていませんか?

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