2015年07月
利他
自分の利益よりも他人の利益を考えて行動することを利他的とか利他主義などといいます。
利己主義と利他主義だと前者のほうが悪い印象を持つ人がほとんどではないでしょうか。
利己主義の定義がよくわかりませんが、利己でも利他でも結局は自分の利益になるために行動を起こしているような気がします。
僕は利己主義と利他主義のどちらかを選べと言われたら、利己主義を選びます。
選ぶまでもなく僕自身が利己主義だからです。
僕の血液型はB型なのですが、B型の血液型の人間は、自分中心でわがままな人が多いと言われます。
まさしく僕自身がB型の典型のような性格です。
ただ、そういった性格が出る瞬間や出た後にとても自分自身が嫌になることがあって、なんとかB型のマイナス要素である性格を治したいと思い続けてきました。
結果的には治っていないようですが、営業職を経験したことも原因なのか、今では初めて会った人からB型だと言われることはほとんどありません。
わがままとか自分勝手だと思われる行動や言動を自制するテクニックを身につけたのかも知れません。
最初に僕が利己主義だと言いましたが、僕の考えている利己主義とは血液型に現れている性格とはかなり違っていて、一般的な定義ともかけ離れているような気がします。
僕の利己主義を理解してもらうには利他を説明する方が早いかも知れません。
自分を犠牲にしても他人の利益を優先するというのは、言い換えると他人に対してなんらかのアクションを起こすことになります。
自分が他人に対していいと思うことを提供するわけです。
災害に遭って、今日の飲み物も食べ物も無いという人に援助するということを除いて、一般的な生活を送っている他人に対して自分の価値観を押し付けるようなことが、果たして他人の利益になるのでしょうか。
息子夫婦にアドバイスする姑などを想像してもらうと判り易いかも知れません。
宗教問題などはその典型だと思います。
子供を思う親の気持ちなどもそれに近いものがあるような気がします。
僕は自分以外の人間に干渉することが全て悪いと言っているわけではなく、相手にプラスになって欲しいという気持ちは、逆にマイナスの要素も引き起こす可能性があることに気づいて欲しいのです。
僕は依頼者の方から、大変な仕事ですねとか疲れませんかとか聞かれることがたまにあるのですが、その際に答えることはいつも同じです。
自分が楽しんでいるから疲れないし、大変だと思ったことも無いです。
本心からそう思っています。
大変な決意で予約をされてきた女性に対して、なにかを提供してあげなくてはとも思わなくて、とにかく共有している時間を楽しめたらという気持ちで接しています。
自分の利益を優先しているわけです。
100人の依頼者が100人とも満足されるはずが無いですし、一部の人が結果的に予約をしてよかったと思ってもらえればそれでいいと思っています。
人に利を提供するよりも人に利を感じてもらえることが大事なことのように思うからかも知れません。
常に自分が幸せだと感じることが出来れば、他人に依存することも無いでしょうし、他人の言動に一喜一憂しなくて済むはずです。
自分を取り巻く環境を快適なものにするためには、究極の利己主義が必要だと思います。
究極の利己主義とは、花や木や生まれたばかりの赤ちゃんのように、ただあるがままということなのかも知れません。
出世花 高田郁著
先日、母の四十九日が終わりました。
今年の三月に入院した際に、主治医から今回は退院できるが、もし次に入院することがあれば先は長くないと言われていて、五月初旬に再入院してから三日後に亡くなりました。
幸い入院してから最期まで付き添うことが出来ました。それも今の仕事(性感マッサージ)をしていたおかげなのかなとも思います。
母はずっと痛みを訴え、その間背中を撫でていたのですが、最初に母の背中に手を当てたときに骨と皮だけの感触に戸惑いました。
最期の日は、あと数時間だと聞かされていたので、ずっと傍にいました。もう意識もこちらからは確認することも出来ず、ただ酸素マスクから送られてくる酸素によってかろうじて肺が動いているという状態です。
痛みを感じていなければいいのにと思うしかありませんでした。
口から緑色の液体が流れ出し、慌ててティッシュで拭いていると看護師が慌てて病室に入ってきました。
今から思うとナースステーションの心電図で、心臓の状況を確認していたのでしょう。
そのあと主治医の代わりの医者が来て、臨終時刻を教えてくれました。
葬儀屋の手配などをしているときに、看護師と助手のような人が病室に入って、母親の体を綺麗にしてくれていました。
今回、紹介する本は、時代小説です。
三昧聖(ざんまいひじり)が主人公です。
三昧聖とは、墓地の管理にあたる墓守のことを指すようですが、この小説においては、死者を湯灌(ゆかん)によって綺麗に洗い、化粧なども施す人を指します。
主人公である三昧聖の正縁(十八歳の女性)は、死者の苦しみを取り除き、遺族も安心して見送ることができるということで、噂になるような人なのですが、彼女の仕事を小説で読んでいるうちに母の体を綺麗にしてくれていた病院のスタッフの人を思い出しました。
ほんの十数分ぐらいだったと思うのですが、終わりましたという報告を受けて、病室に入り、母の顔を見るとそれまで苦痛にゆがんでいた顔が消えていて、楽しい夢でも観ているのではないだろうかと思うような安らかな顔をしていました。
揺り動かせば目覚めそうな顔でした。
その表情を見たときにやっと母の安らぎを感じることが出来たのです。
死に対して考えさせられる一冊となりました。
鍵をかけることは
先日、
といってもかなり前のことです。今年であることは間違いないと思います。
僕の事務所に空き巣が入りました。
朝、来てみるとなぜか扉が開けっ放し状態で、鍵をかけ忘れたのかなと中に入ると、あきらからに見知らぬ他人が侵入したのだという形跡が残っていました。
被害は、携帯電話とカード類、あと銀行の通帳などで、金銭的な被害はありませんでした。
カードや通帳、携帯電話の再発行にかかる費用を除いてですが。
今回の事件の中で面白かったのが、知人からいただいた金庫がバールのようなものでこじあけられかけていたことです。
金庫自体はもう使い物にならないぐらいに変形しているのですが、中身を取った形跡はありません。
1センチほどの隙間があいていて、空き巣くんはそこから中になにも入っていないということがわかってあきらめたのかも知れません。
知人からいただいた金庫なのですが、鍵をもらっていなかったためにこれまで一度も開けたことがないため、中身は不明です。
結果的に壊されたのは、未使用の金庫と入り口の扉です。
机の引き出しにカードや通帳類を入れていたのですが、鍵をかけていなかったために、今も機嫌よく使用しています。
引き出しに鍵をかけることも出来るのですが、かけていなかったおかげで無傷でした。
最近は、個人情報があ~だこ~だということで問題になりますが、昔は普通に電話帳に住所や名前が載っていました。
何が言いたいかというと、無防備なのが一番被害が少ないのではないかということです。
現在でも田舎にいくと鍵をかけていない家が存在しているでしょうし、帰ってきたら普通に近所の人が家に上がりこんでいるということもあると聞きました。
自分の中にある決まりごと(鍵)のようなものを作ってしまうと、それを破る人が現れると必然的に動揺したり、傷ついたりします。
破る人が悪いのだと責める気持ちが湧くのは当然かも知れませんが、そもそもルールというものは破られる為に出来ていると考えるほうが楽に生きられるような気がします。
地球上で鍵を使っているのは人間だけです。
何から護る為に鍵が必要なのでしょう。
僕自身も防犯という意味で事務所に鍵をかけることはしますが、なるべく心の扉はいつもオープンでありたいと思っています。
難しいですけどね。