サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2014年10月

最近、というかずっとですが、競馬をやってかなりの敗北感を味わっています。

負けが続くと軽いうつ状態のような感じになって、何もやる気が起きなくなるのです。

こんなことが続くとそのうち病気になることでしょう。

まあそうならないように勝つ体質になろうと日夜格闘しているわけですが、今日の記事は僕の寂しい競馬論を語るのではなく、夫婦間においての女性の気持ちについて語ろうと思います。

これまで夫からひとりの女性として見られなくなったり、浮気をされたり、更年期が近づく、あるいは更年期真っ最中という人が抱く感情として、「喪失感」や「焦燥感」などといったものを挙げてきたのですが、「敗北感」という言葉も加えるべきかも知れないと思うようになりました。

夫に対してそれほど愛情が無いにも関わらず浮気を発見すると心が動揺してしまうのは、裏切られたという気持ちからくる不信感や嫉妬などがあると思うのですが、そういった具体的な感情よりも敗北感というもっと根本的な気持ちに包まれているような気がするのです。

夫婦生活が戦いの場であるということではないのですが、相手の行動によって抱く感情というのは何かに負けて惨めな気持ちになる敗北感と似ています。

夫婦生活というゲームをしていると仮定して考えると夫の不義というのは突然ルール違反をして自分の都合のいいように駒を進めている状態であって、それに対して何故か妻のほうが敗北感を味わっているといった感じです。

ここでいう夫婦生活ゲームのルールというのは、その夫婦間だけに存在するオリジナルなものなのでこれが基本的なルールですと言えるものはありません。

公然と浮気をする夫であっても、尊敬に値する人物であって妻が幸せだと感じることが出来るのであればそれはその夫婦間のルールをきちんと遵守しているのでしょう。

僕が競馬で負けたときに抱く敗北感は、自分自身に対して負けたという気持ちになるのです。

いつまでたっても学習できない頭の悪さや勝負どころだというのに大きく賭けることができないという度胸の無さなどに対して、ふがいなく感じるわけです。

ギャンブルと夫婦問題を一緒にすることはできませんが、敗北感を感じるかどうかは自分自身が目の前の現実に対してどういった感情を抱くのかということに尽きると思います。

相手がルール違反を犯しているということに腹を立てるよりもルール自体を変更してゲームを楽しむという事が出来れば敗北感などは存在しません。

怒ったり、落ち込んだり、イライラしたり、悲しんだりする感情が起きるのは人間であれば仕方が無いことなので、そういう時は我慢せずにその感情に浸ればいいと思います。

ただし、落ち着いたときに自分の感情が揺れ動いた原因を調べてみることも必要です。

ゲームに負けた原因。

それはほとんど自分の中にあるルールが関係しているはずです。


300字小説 第224回
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『皺』

「零ちゃん、若い子を困らせちゃだめよ」キツネ色に焼けたにんにくの上に分厚いステーキを乗せながらおかあさんが言った。

僕は意味がよくわからずおかあさんの顔を見た。

「零ちゃんはね、気にいった新人さんが来るといつもここに連れて来るの。そして同じ質問に同じ答えを返すのが楽しいみたい。安心していいよ。零ちゃん以上の女好きは他に見たことがないから」その時、横にいる零次さんの目尻の笑い皺が増えたような気がした。

その後、二時間ほどかけてワインと肉を堪能した。零次さんはその間、僕の学生生活や生い立ちなどについて興味深そうに聴いていた。

自分のことを話すことが苦手だったが、零次さんには不思議と素直に話すことができた。
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今、ノーベル文学賞を受賞したアメリカの女流作家であるパール・バックの大地という本を読んでいます。

簡単に内容を説明すると1800年代後半から1900年代初期の中国に生きた3代に渡る中国人の生き様を描いています。

アマゾンで購入した中古の文庫本の文字が小さかったせいで老眼ぎみ(ホントは老眼全盛)の僕のとっては大変読みにくく、本棚の片隅にひっそりと収納されていたのですが、購入してから1年にもなろうとする最近になってようやく面白さが老眼のつらさを克服し、一気に最終巻の第4巻まできました。

もちろん外国の小説なので日本語訳なのですが、その中に「第一巻の終わり」という言葉があったのです。

最初は、ん? どういう意味なのだろうと一瞬考えたのですが、すぐに「いっかんの終わり」という言葉を思い出しました。

最近ではほとんど使わなくなった「いっかんの終わり」という言葉ですが、漢字で書くと「一巻の終わり」と書くようです。

僕の頭の中では、一巻ではなく一環か一貫という漢字を思い浮かべる言葉だったのですが、ネットで調べると無声映画時代に内容を説明する弁士が、映画の終わりのしめくくりとして「第一巻の終わりでございます」などといったことが語源であると記載されていました。

語源についての真偽のほうはわかりませんが、とにかくひとつの物語が終わるという意味であることは確かなようです。

だいたい「一巻の終わり」と使われるのは、悪党が正義の味方によってその謀略をつぶされたときに使われていたという印象があるのですが、大地という小説の中では普通に生活している人の人生においても一巻の終わりというものが存在するということで使われていました。

では本当の人生において一巻の終わりというものは存在するのでしょうか。

国会議員や企業や団体のトップにいる人が自殺する話をたまにニュースで見たりしますが、当事者にとってはまさに一巻の終わりという事態になってしまっていて、自殺するしか方法が見つからないと思ったのかも知れません。

このブログを読んでいる人で、これから自殺をしようなどと考えている人はいないとは思いますが、もし目の前が真っ暗でこれからどうしたらいいのかわからないと思っている人がいたら、一巻の終わりなどというものはないということだけ理解していただきたいです。

終わりというのは、自分しか決めることが出来ないのです。

またその逆に始まりも自分で決めることが出来ます。

それ以上に僕が常々言っていますが、もともと始まりも終わりもなく、今、そのときをどれだけ楽しめるのかということに焦点をあてていただきたいと思います。

大きな目標、大きな計画に向かって一生懸命努力するというのは、素晴らしいことのように思いますが、目標や計画が努力のかいあって実現したとしても、その後もあなたの人生は続くということを理解する必要があると思います。

表面の出来事に一喜一憂するのではなく、どんなことが起きたとしても常に幸せで、楽しいと思える自分になるほうが大切ではないでしょうか。

一巻の終わりがあれば次に二巻の終わりが来るだけです。

あなたの人生は、ノーベル文学賞よりも間違いなく価値のあるものでしょうから。

300字小説 第223回
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『恋愛対象』

「明日、ホストの仕事があるんだったらにんにくは控えといた方がいいかもよ」零次さんは笑うと目尻にたくさんの皺が入るようだ。

前回は僕が緊張していたせいで見落としたのか、彼が笑顔を浮かべていなかったせいなのかはわからないが、初めてみる表情だった。

「まだ一度も仕事の予約をいただいたことは無いですよ」僕も笑顔で答えた。

イベント会社の社長の車に乗っていたときにかかってきた電話については黙っていた。それよりも前から気になっていたことを聞いてみた。

「どうして僕を誘ってくれたんですか? それも二度も」零次さんは三杯目を注ぎながら答えてくれた。

「一回目は好奇心、二回目は恋愛対象として」僕は返答に困ってしまった。
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政治の話をしたいわけではないのですが、今日のヤフーニュースをみていたら、イスラム国対アメリカの戦争において日本はアメリカの行動を支持し、軍事的貢献ではなく人道的支援をすることを表明したとかいうニュースがありました。

小泉首相のときもイラク戦争において、後方支援などというものでアメリカを手伝っていたような気がします。

人道支援とか後方支援とか自分なりに当事者ではないという立場を維持したいのかも知れませんが、僕には殺人事件があったとして実際殺した人とそれを助けた人は共犯だという観点からみても日本の立場というのは、とても自分たちに都合のいいものだと思っています。

手伝わなくても、止めろと言わない限りは共犯扱いされてもいいのではないか。

世界的に悪とされている相手であっても、その相手から見れば敵対国は悪な訳です。

それを後方から支援している国も同じです。

何が言いたいかというと、中途半端な言い訳をせずに自分も立派な共犯なのだと胸を張ってもらいたいのです。

それが出来ないのであればアメリカを批判し、支援などしないようにしていただきたい。

と、長々と書いてきたのですが、本題はこれからです。

教唆という言葉をご存知でしょうか。

教唆は「きょうさ」と読みます。

唆というのは、そそのかすという意味です。

殺人教唆は人殺しをしろとそそのかすことで、自殺教唆は自殺することをそそのかすことです。

どちらも犯罪になります。

奥様同士の井戸端会議で、不倫を推奨した場合はどうなんでしょう。

不倫教唆として、もしかすると被害者から慰謝料を請求されることになるかも知れません。

僕はブログなどで不倫を推奨するような記事も書くことがありますが、それもある意味では教唆と呼べるかも知れません。

日本と同じで後方支援もしているかも。

などと気づいたので、今回の記事を書いてみました。

戦争と不倫を同レベルで扱うなとお叱りを受けそうですが、お許しください。


300字小説 第222回
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『乾杯』

店には割ぽう着姿の初老の女性がひとりいるだけで、零次さんの顔を見ると僅かに微笑み、いらっしゃいと歓迎してくれた。

客は僕たちだけだ。「いつもの奴を二人前と、とりあえずビール」と、狭い店に響き渡るように零次さんが注文した。

零次さんは彼女のことをおかあさんと呼んでいた。

「アゲちゃんは、酒飲める?」と、質問をしながら僕にビールを注いでくれた。それほど強くはないが、夏に飲むビールのおいしさは理解できるようになっていた。

「じゃ、アゲちゃんのホストデビューに乾杯!」零次さんは小さなタンブラーに入ったビールを一気に飲み干すと二杯目を自分で注いだ。

目の前の鉄板で、スライスされたにんにくが大量に焼かれ始めていた。
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男の更年期のせいなのかどうかはわからないですが、最近やたらと汗をかきます。

寝汗もそうですし、肌寒いくらいだなと思うようなときでも汗をかいていることがあって、一番顕著なのが食事中や食後です。

別に辛いものを食べたわけでもないのに自分でもおかしくなるぐらいに汗をかいています。

新陳代謝がいいといえばそれまでなのかも知れませんが、あらためて考えてみると汗というのは欲に関係しているのではないかと思うのです。

寝汗は、睡眠欲。

食べて汗をかくのは、食欲。

欲を満たしている最中には体の血行がよくなるのか、細胞が湧き立っているのかはわかりませんが、とにかく普通の状態ではないのは確かです。

三大欲求と言われているうちの二つがそうであるのなら、残りのひとつはどうだろうと考えてみました。

性欲を満たす行為をしていると汗をかくのだろうか。

答えはやはりYESです。
施術を施しているほとんどの女性は背中に汗をかいています。

生物学的にとか物理的にとかいう科学的な根拠は何もありませんが、たぶん欲求が起きている状態というのは何かの刺激を外部から取り入れたいという衝動が湧いているのだと思います。

外部から何かを取り入れるとその分何かを放出する必要があるのではないか。

それが汗となるような気がします。

大昔の青春ドラマの主題歌に涙は心の汗だという歌詞がありました。

心が何かの衝動によって刺激されるとその対価として汗(涙)が湧いてくるのかも知れません。

人間の体の60%は水と言われていますが、それだけの欲を持っていると考えることもできます。

年をとればとるほどひからびてくるのは、欲が無くなってきたからかも知れません。

ちなみに新生児は80%が水分だそうです。

たぶん生きるという欲で満たされているのでしょう。

いつまでも若さを保ちたいのであれば貪欲に過すことが一番の秘訣かも知れませんね。

300字小説 第221回
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『歓楽街』

タクシーを降りたときになぜか誇らしげな気分になっている自分がいた。

酒屋や花屋、おしぼり業者などが忙しそうに配達をしている。大阪で一番の歓楽街だという噂は聞いたことがあったが、僕には京都の歓楽街との違いを見つけることは出来なかった。

先に食事をするということで零次さんのあとに続いた。着いた先は、間口の狭い古びたビルだった。狭い通路を進んでいくと目的の店があった。入り口は木製の格子戸になっていて、白くて小さな暖簾がかかっている。

一番端に小さく鉄板&ステーキ、その横に西本と二列に印刷されていた。中に入ると目の前に鉄板焼き用のカウンターが飛び込んできた。十人も入ればいっぱいになるような小さな空間だった。
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