先日、あることのお祝いとして家で焼き肉パーティーをしました。
自慢ではないのですが、とても換気が悪いので、2・3日しても焼肉の匂いが消えず、それだけでご飯が食べれるんじゃないかと思うほど強烈に匂いがこびりつきます。
床・天井・壁だけでなく、ハンガーにかけている衣類なども当然同じ状況になっているはずなのですが、僕自身はその中にいるために、ファブリーズを適当にかければ大丈夫だろうという感覚でそれらの服を着て街に出たのです。
当然、着る前には一応、くんくんと匂いを確かめて。
最初はまったく気にならなかったのですが、時間が経つにつれ焼き肉の匂いが胸元から立ち込めてきて、家に戻って脱いだ衣類を嗅いでみると、さっき焼き肉屋を出たのではないかというぐらいの匂いがしたのです。
その日は、もちろん焼き肉屋には行ってません。
なにが言いたいかというと、人間は匂いに対して麻痺するというようなことではなく、その匂いに順応するということです。
ニンニクを食べた人のことを臭くて嫌だと思っても、自分がニンニクを食べていれば同じ相手でも嫌だと思わないわけです。
これは匂いだけに限らず、五感(視覚・聴覚・味覚・臭覚・触覚)のすべてに言えますし、もっといえば慣習や地域のルール、国の法律なども同じ理屈が通ります。
一番身近では、家庭内のルールや仕事先のルールなど。
第3者からみたら、???といったことでも、当事者からすると第3者が???となっていることが理解できないわけです。
どっぷりとその空間や世界に浸って生きていきたい!と思っている人には、どうぞそれを楽しんでくださいとしか言えませんが、もし仮に、現状に疑問を持っている人がいるのであれば、それは感覚が、ニュートラルに近づいている証拠だと思えばいいと思います。
少なくともあなた自身が一番安定する状況(あなた仕様のニュートラル状態)ではないはずですから。
人間の持つ、周りの環境にすぐに順応するという素晴らしい機能は、逆に弊害も招いているということもお忘れなく。
300字小説 第213回
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『記憶』
遠慮がちに受け取る子供もいれば、ふたつもみっつも欲しがる子供もいる。僕が近寄るだけで泣き出す子供もいて、そんな時は自分が生きているという実感がして、不思議と心が満たされる。
大抵の親は笑っているが、中には不機嫌な表情を浮かべて、子供を引きずりながらその場を離れる母親もいる。鳥のしたことに文句を言う者はいない。
着ぐるみに入りながらそんな親子の姿をみていると、時々、幼い頃を思いだす。
その光景はいつも同じで、小さなベランダで父と僕が柚子の木が植えられた植木鉢を眺めている。
父の大きな人差し指の先には、柚子の木の枝に今にも落ちそうな茶色の塊がぶら下がっていて、父は笑みを浮かべて揚羽蝶の蛹だぞと言っている。
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