サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2013年08月

罪悪感について3つの記事を投稿しましたが、内容が難しくよくわからないという意見をいただきました。

具体的に質問していただいたので、それについてこちらでもお答えしようと思います。



「また罪悪感のようにはっきりと嫌だなと思える感情ではなく、自分がいいと思ってしていることであっても、本来の自分の気持ちに逆らって生きていると同じように病気になります。」

質問:「自分がいいと思うことと本来の自分の気持ち」は違うのか

回答:嘘をつくことは駄目だと教育されて育ってきても勤めだすと当たり前のように嘘をつくことがあります。

たとえば社長から電話がかかってきたら外出していると言っておいてとか・・。

働く上でのルールと人として生きていくためのルールは違うということです。

政治家などは、公人と私人を分けて発言したりしますが、僕にはまったく理解できません。

本来の自分を偽って、相手にいい顔をする人を信用できるわけがないと思うのですが・・・。


「自分が悲しむことや苦しむことが好きで心地いいと思うエゴがそうさせていると考えています。

葬式で泣いている人に対して悲しむことを楽しんでるんでしょう!とはさすがに言えませんが、涙を流すことによって心のバランスを正常に戻そうとする機能が人間には備わっているのだと思います。

楽しいことであっても悲しいことであってもその原理は同じだと思うのです。」

質問:意味がよくわからない

回答:心をシーソーに例えて考えて欲しいのですが、均衡を保っている(地面と平行)状態というのは、心が安定している状態です。

自分にとっての右がプラスの感情、左がマイナスの感情とすればどちらに傾いてもまた元に戻ろうとする力が作用するのですが、その原理は同じだということです。

質問:楽しいことをたくさんすればいいと言っているのに矛盾しないか

回答:悩みを抱える人のほとんどが、マイナスのことに対して意識を傾ける癖をもっているので、あえていつも楽しいことをしましょうと言っています。それが習慣になると安定する状態が理解できます。

読まれている人から難しいと言われるのは、僕に文章力がないせいだと思います。

これからも独りよがりな文章がたまに登場すると思いますが、もし判らないというときは是非、質問してください。

僕自身の勉強にもなりますので、よろしくお願いします。

質問は直接メールで!

300字小説 第56回
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『敬語』

「ごめんなさい。冗談です。ちょっと主婦業に疲れて、昔から仏像を観るのが好きだったので、来てみたの」

「そうだったんですか。でもちょっと残念だな・・・」

「どうして?」

「あなたぐらいの年齢の女性が、恋に破れて一人旅しているってすごくいいなって思って」

「もう恋愛を出来る年じゃないよ」

「恋をするのに年は関係ないよ。恋をしている女性はいくつでも魅力的だと思う」

正美の冗談からいつの間にかふたりの間に敬語がなくなっていた。

「お母さんぐらいの人でも好きになれるの?」

「外見はまったく関係なくて、その人の魂のようなものが、僕にとって魅力的に感じたら好きになるよ」

アゲハの口調から、経験したことがあるように感じられた。
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とくに罪悪感関連の記事が好評で、励ましのメールやもっとこのシリーズを続けて欲しいといった要望があるわけですないのですが、このテーマについては語っても語りつくせないものがあるので、今回も続けます。


「沖虚真経※」には、「善行に対する警告」というものがある。楊朱いわく、「善行をおこなう者は、名声のために行うわけではないが、名声は自然についてくる。名声は勝利とは関係ないが、勝利もついてくる。勝利は争いとは関係ないが、争いのとき味方する。それゆえ崇高な人は善行をおこなうよう心がけるのである」。

悪行を排して善行を心がけよという誰もが信じて疑わない基本的主張に疑問を投げかけろというのは、大変な要求にちがいあるまい、それまでの基準に固執すれば、不安がわきおこるのも当然だ。

それでもなおこのテーマをもう少し論じて、あらゆる側面からものごとをながめたい。

罪の解釈の誤りは、キリスト教文化に深く根ざした世界観のもとになっていて、西洋人の心は想像以上に強く結ばれているのである。ほかの宗教ではこの問題はそれほど大きくない。

ヒンズー教の最大主神をなすブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァのなかでは、シヴァが破壊を受け持ち、建設者であるブラフマーに拮抗する。このように描写すると、必然的な力関係が理解しやすい。

仏陀については次のような話がある。若い男性が仏陀のところにやって来て、弟子にしてほしいと頼んだ。

すると仏陀は言った。「盗みをしたことがあるか?」。

男は答えた。「盗みなどはたらいたことはありません」。

仏陀は言った。「それなら行って盗みをしてくるとよい。それができたら、私のところに来なさい」。

禅仏教の最古の経典でおそらく最も重要な《信心銘》の二二節に「正と誤の何たるかが少しでもわかるなら、人の心は混乱して破滅する」とある。

両極性を二つの極に分割するものは《悪》だが、洞察のためになくてはならない。ふたつの極がないと認識できないからである。

そして、両極間の緊張を、単一性に到達するための推進力として利用しなければならない。

人間は罪深いが、罪は自由のあかしであり、罪こそが人間をなしているのである。

みずからの罪を受け入れ、罪に押しつぶされないようにすることは重要だ。人間の罪は形而上学的なもので、行為に起因するわけではない。決定して行動しなければならないという必要性をもっていることが、すでに罪のあらわれである。

罪があると認めれば、罪になるのではないかという不安から解放される。

不安は狭量なので、拡張を妨げる。必死になって善行をしても、共存している対極を押しのけるばかりで、罪から逃れられるわけではない。

善行によって罪を排除しようとすれば、不誠実になるのである。

※沖虚真経(ちゅうきょしんけい)とは、列子と呼ばれる道教の経典の別名です。

いきなり難しい文章を転載しましたが、これは以前も紹介した「病気が教えてくれる病気の治し方」というドイツで数百万部売れているベストセラー本からの抜粋です。

罪悪感その3を書こうと思うに当たって、本来の自分が望んでいることに反することが、どれほど体に悪い影響をもたらすかということを書こうと、参考にするために手に取り、なにげに開いた箇所に偶然書かれていました。

この本には、病気はすべて心のバランスが崩れたときに教えてくれるシグナルであって、その病気ごとにどういった心の状態になっていて、それをどうすれば改善できるのかということが書かれています。

巻末には病名別の索引があり、逆引きが出来るようになっています。

この文章を僕なりに解釈すると感覚や経験などの世界から離れて罪の存在を受け入れることで、窮屈な世界から自由な世界へ移り住むことができ、病気の原因になるようなものとは無縁になるといいたいのだと思います。

世界中に蔓延している性に対する固定観念は、キリスト教による影響がとても大きいと思います。

それを信じることで、自分の心のバランスが保たれるのであればいいでしょうけれど、信者でもないのになにげなく植えついた固定観念に縛られて、がんじがらめになってしまっている人にとっては、もっと高い視点から物事を判断して欲しいと思います。

いつも言っているように小説の中の登場人物のレベルではなく、作者の視点で考えるということです。

罪を犯したくないと誰もが思うでしょうけれど、なにかを決めて行動すること自体が、すでに罪を犯しているという考えになれば、自分の中の罪の意識の境界線はあいまいになります。

そもそも生きているなかで白か黒かという分けれるような境界線など存在しません。

人間が自分たちの都合のいいように定めているだけだということを理解するべきです。

100人いて100人が納得できる境界線など作れるわけがないので、どうしても越境してしまう人が出てきます。

僕みたいに越境することに快感を覚える人間ならいいのですが、ほとんどの人は真面目なために罪の意識を感じてしまうのです。

僕たちは枠の中で生活するために生まれてきた訳ではない筈です。枠はあくまでもそれを活用すれば便利だというだけで、それに捉われる必要はありません。

自らかごの中の鳥として生きたいという人であるのなら、それはそれでいいとは思いますが・・・。

300字小説 第55回
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『嘘』

「お母さんは、仏様みたいなものなのね」

ひとつの生命を生み出す能力を持っているというのは、ある意味仏様のようなものだと思った。

「ところで、どうして霊宝館に行かれたのですか」

平日の昼間に普通の女性がひとりで行く場所ではない。アゲハは、子供が尋ねるときと同じ澄んだ瞳をこちらに向けて質問した。

正美は、急に話が変わったのと、本当の理由を言えないことにうろたえてしまった。

「傷心旅行・・」

冗談を返すにしてもあまりに中途半端な発言だった。

「そうなんですか。すみません、てっきり結婚されていると思っていました」

真面目に受け止めたアゲハの真剣な表情を見て、そのまま独身を通してしまおうかという考えが一瞬頭を過ぎった。
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当たり前の話ですが、生まれたての赤ちゃんには罪悪感などありません。

ママのおっぱいを飲みながら反対の乳首を自分の手で触って、他の人にとられないようにするのは、食料を確保するという生存本能からです。

少し大きくなって仲のいい保育園仲間とおもちゃで遊んでいるときに取り合いになってしまうのも、自分が楽しみたいという気持ちに素直になっているだけです。

そんな本能むき出しの喧嘩を見て、親や保育士さんが、一緒に仲良く遊ぼうねとか○○ちゃんにも貸してあげないとだめでしょ~などと繰り返し言われることによって、その繰り返しが自分にとって不愉快になるために、自然と仲良く分け与えるという知恵がつきます。

本来の自分は貸したくないのに、強制的に洗脳されているようなものです。

こういった様々な洗脳が行われ、それが刷り込みや固定観念、倫理観などといったものと言われる様になり、それに即した生き方が、人間として正しい姿であると思い込むのです。

そしてその正しいと勘違いしていることに反する行為をしたときに罪悪感が生まれます。

罪悪感なんてこの世から消えてしまえばいいのに・・・。

今日のブログは、投げやり風にまとめてみました。

300字小説 第54回
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『陽』

「女性に強い関心があるんですね」

「中学に上がる前に父親が他界して、それ以来女性ばかりの環境で育ったせいかも知れません」

「そうなんですか。じゃあお母さんは、苦労されたんですね」

「そうだったと思いますが、僕たちにはそんな素振りはまったく見せたことがなかったですね。そういう強い母親という存在が、如来や観音などとリンクしているのかも知れません」

初めて会ったばかりの相手に、辛い過去を淡々と話すアゲハの顔には時折笑顔が混じっている。

息子のマサルやチッチが時々見せる若者特有のネガティブな表情を一瞬も浮かべることはなかった。

悲しい過去の影響はまったく無いのかも知れない。

母親の育て方がとてもよかったのだろうか。
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浮気や風俗通いなどを罪悪感無しで、出来る人と出来ない人がいます。

もちろん僕に依頼される女性もどちらかに分かれます。

たぶん僕の予想ですが、男性が浮気や風俗を利用するよりも罪悪感を持っている人は少ないような気がします。

罪悪感が起こるのは、自分の本当の気持ちに反したときです。

女性の場合は、悩みに悩んで自分の気持ちに対して本気で問いかけ、覚悟を決めてから一歩踏み切っています。

全てではないでしょうけれど、本当の気持ちに反していない人が多いのだと思います。

男の場合は、そんなに深くまで問いかけて覚悟を決めている人は少ないでしょう。

浮気なんてしない方がいいと思いながら、ついふらふらとしてしまうから罪悪感が生まれるのです。

よく離婚をして子供に対して罪悪感のようなものを抱えてしまいがちですが、離婚した以上はそんな気持ちになる必要もありませんし、もしいつまでもそう思っていたとしたら、子供に対してではなく離婚そのものに対して後悔しているからだと思います。

本当に自分が必死で考えた結論であれば後悔などしなくていいですし、罪悪感など生まれないはずです。

子供に対しての責任を感じるのであれば、その時に自分が出来る精一杯のことをすればいいだけです。

それは世話をしたり金銭的な援助といったものも大切ですが、仮になにかの事情でどちらも出来ない状況に陥ってしまったとしても、その時に自分が一生懸命に生きればそれでいいと思います。

もし子供に対してなにも出来ないことに苛立ちや悲しみを抱くのであれば、その感情を抱いている時間を子供の幸せを祈る時間に変えるべきです。

罪悪感などの負の感情を抱え込むと心のバランスが崩れて、必ず体のどこかに病気のシグナルが発生します。

また罪悪感のようにはっきりと嫌だなと思える感情ではなく、自分がいいと思ってしていることであっても、本来の自分の気持ちに逆らって生きていると同じように病気になります。

雇用されている人のうつ病などは、その典型と言えるでしょう。

たぶんそれだけ今の社会の人間的な優しさを押し殺すようなシステムでなりたっている状態に違和感を持つような純粋な人が増えているからだと思います。

これだけの社会現象が起きると必ずそれを救済するようなシステムや人が登場するはずです。

そういったモノの登場を待つのではなく自分がその中心になればいいと思います。

世界は自分が創造しているのですから、その気になれば何でも可能です。

今日の大阪は、久しぶりに快適な涼しさになったせいかも知れませんが、僕がなんか熱くなってしまいました。

いつも何が起きても我関せずというスタンスですが、たまには許してくださいね。

300字小説 第53回
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『小心者』

「どうして猿を飼ってはいけなかったのでしょうね」

「僕もはっきりとは知らないんですが、猿のほかに猫や鶏も禁止だったみたいで、猫などの愛玩動物は修行のさまたげになると言われていたそうです」

「ふ~ん。厳しかったんだね」

「でもそんなものぐらいで心が乱れるというのもおかしな話だと思いますけどね」

「男の方が、小さなことで動揺しやすいんだと思います。イチノさんのようなことは、男には出来ないかも知れない。出産なんかもそうですけど、ここ一番に出すエネルギーは計り知れないものがあるように思うんです」

正美は、アゲハがホストになった理由は女性への強い関心が影響しているのだと感じ、それについて聞いてみたい衝動が湧いた。
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僕は自慢するわけではありませんが、熱しやすく冷めやすい性格で典型的な三日坊主だと思っています。

お前は三日坊主だなといわれて喜ぶ人はほとんどいないと思いますが、あまり物事に執着することがないと言い換えたりすると、それはそれで長所と捉えることも出来なくもありません。

ギターやサックスや水泳や料理などを凝りだしてやり始めたことがありましたが、どれもそこそこ出来るようになると飽きてしまってもっと深く追求しようとはしませんでした。

どれもまだこれからまた再開すればそれはそれでよしと考えているせいなのかも知れません。

自分のためになることをすぐに諦めるのを三日坊主というのだと思うのですが、例えば身内や大事に育てていたペットなどが亡くなったときに悲しむことはどうでしょうか。

僕は、かなりの反感を買うのを覚悟でいいますが、悲しんだり苦しんだりするのもその人の欲の結果だと思っています。

自分が悲しむことや苦しむことが好きで心地いいと思うエゴがそうさせていると考えています。

葬式で泣いている人に対して悲しむことを楽しんでるんでしょう!とはさすがに言えませんが、涙を流すことによって心のバランスを正常に戻そうとする機能が人間には備わっているのだと思います。

楽しいことであっても悲しいことであってもその原理は同じだと思うのです。

僕の場合は典型的な三日坊主なので、かりに悲しいことが起きてもたぶんずっと引きずるようなことはないと思います。

白状な男だと思われるかも知れませんが、もし仮に僕が死んだときに残された家族がずっと悲しんでいる姿を見るのはつらいですから、そういったことを考えると相手のことを思って悲しんでいるのではなく、自分の心のバランスをとるという自分のための行動にほかならないのではないでしょうか。

落語家さんのお通夜なんかでは、楽しい宴会のようなものをすると聞いたことがありますが、もし亡くなった人がそこにいるとしたら、じめじめしているよりもカラッと楽しい空気のほうがいいに決まっていますからね。

もしあながたよく三日坊主だと言われたり、自覚しているのなら、それはバランスを人よりも正常に戻す力が優れていると考えてみてはどうでしょうか。

今日の記事は、瀬戸内寂聴さんの話を聴きながら浮かびました。

その動画も掲載していますので、よければご覧ください。



300字小説 第52回
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『反骨精神』

「武士の娘だったとかなの?」

「違うんです。若いときに高野山で住んでいた人と結婚がしたいということで、どうせ駄目なものなら堂々と入ってやろうっていう気持ちからなんだと思います」

「その後、そこで味噌屋を経営したそうですが、かなりの商売上手だったみたいですね」

「馬で入ってから女人禁制が解かれるまで20年以上もあったんですが、その間はかなりの迫害に遭われたそうですが、もともと気質が荒いイチノさんは、男たちを追い払ったそうです」

「そういう意味では、もう当時はいなくなっていた武士のような人だったのかも知れませんね」

「猿を飼うのは高野山では禁止なのに、それにわざと反発しているかのように飼っていましたしから」
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