サロゲートパートナー

夫婦問題や性についての悩みをサロゲートパートナー(代理恋人)が解決いたします。

2013年06月

小説家になろうというよりもとりあえず本を出版したいと思いついてから、早40年が過ぎています。

ちょっと盛り過ぎましたが、小学校のころから小説(その頃はSF小説)を読むことが好きで、自分も本を書けるといいなと思う程度でした。(マンガ家になりたい!はその何倍も思っていましたが・・・)

小説を書くことで生活費を稼げるようになるのは、競馬で万馬券を連続5回獲るぐらいに難しいのですが、本を出版することは、お金さえあれば一応は可能です。

先日参加した文芸社主催の「作家になるための講座」で紹介された「リアル鬼ごっこ」という本は、自費出版という形で出版費用を作者と出版社とで折半したそうです。

これは絶対に売れるという確信を出版社側(文芸社)が持っていれば、もっと手厚く作者をフォローしていたのでしょうが、結局、文庫化にともなって文芸社から幻冬舎に変わって200万部以上の大ベストセラーになっています。

マーケティング力の差も大きいというのが、乗り換えた一番の理由かも知れませんが・・・。

その道のプロであっても売れるかどうかというのは、わからないと言うことです。

まあそんな結果については完成してからでも考えるとして、まずは書かなければ何も始まりません。

3億円を当てたいのならまず宝くじを買うことが必要なのとまったく同じです。

と、いうことで小説を書きます!

一番最初に思いついたのは、日本経済新聞で連載されてベストセラーとなった「失楽園」です。

内容はどうでもいいのですが、新聞に毎日掲載されるわけですから、文字数なども制限が決まっているでしょうし、毎回タイトルを考えて、それでいて初めて読んだ人にもそれなりの満足感を与えながら続きが読みたくなるという構成にしなければいけません。

そこで書く前にとりあえず新聞小説の文字数はいったいどのぐらいなのかということから調べました。

はっきりとしたことはわからなかったのですが、朝日新聞に連載されていた萩原治さん(愛しの座敷わらし)の記事を読むと22字×48行以内で収めるとありましたので、約1000文字、原稿用紙2枚半に収めればいいということになると思います。

びっちりと入れると1000文字ですが、失楽園や愛の流刑地などはそれまでの難しい経済関連小説からすると半分ぐらいスカスカでかなり軽めであったという記事もあったぐらいなので、600字程度でも十分に体裁はとれるのではないかなという印象です。

そんなことをいろいろ調べていて面白い記事を見つけました。

300字小説という記事について書かれています。

もともとはアメリカの「フィフティ・ファイブ・フィクション」という55語でまとまられた小説なのですが、日本語にすると300文字が適当になるようです。

「極短小説」として新潮社から出版されているので興味のある方はお読みください。

僕もとりあえず研究のために急いで本を購入しました~。

愛しの座敷わらし
失楽園(上・下)
極短小説

です。

ついでにと言ってはなんですが、300文字小説で今回の記事を締めようと思います。

※ちなみにここまでの文字数(改行や空白を除く)は1292文字です。
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「Mとの遭遇」

熱を帯びているかのような温かい手がうつ伏せの腰にそっと置かれた。

時間にすると5秒もなかったはずだが、背骨を通り越して子宮まで熱が伝わってきた。

ふいに卵子が着床したときと同じ感覚になった瞬間、Mのその手がゆっくりと時計回りに動き出す。

自分の背中に別の生き物が寄生しているような感覚を覚えた。

それは決して不快ではなく、なぜか生まれる前の記憶を呼び覚ますような不思議な感覚だった。

日常で何度も見た主人の冷めた目や子供の泣き顔、猜疑心の塊のようなママ友の笑顔が、時計回りの手の動きに合わせて黒板消しで消されるように消滅していった。

性感マッサージを受けるA子の緊張感は、その時、同時に消えていた。

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293文字でした~~。


この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。

世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることもなく、それぞれまっすぐに立っている。

きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識はふたつの世界の境界の上にいる。

大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。

たとえば星を見るとかして。

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。

水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。

星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。

星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

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本の書き出しを転載させていただきました。

一度読んで面白かったというようなものではなく、何度も読み返して自分の世界と自分自身の位置関係を確かめるための羅針盤のような本だなという印象です。

主人公のぼくとある事件がきっかけで逃亡生活を送る男、佐々井との短い期間におきた出来事を書いているだけなのですが、互いの世界の交わりをきっかけとして自分と並行してならぶ世界の大きさを感じさせてくれます。

時効を目前に控えた逃亡者の佐々井の言葉が妙に心に残りました。

「最初のころ、よく考えたんだけど」と佐々井が言った、「これは草食動物の暮らしかたなんだ。巣を作らない。ゆく先々で身辺にあるものを食べる。こちらから獲物を追うような危険なことはしない。なるべく周囲に溶け込む。急激な行動で人目を引かない。肉食動物と対峙するような事態は絶対に避ける。つまり、はぐれ者の、一匹だけの草食動物さ」

僕の場合は、罪を犯して逃亡生活をしているわけではないですが、佐々井の逃亡生活と同じように生きているような気がします。

シュラフひとつで生活しているというのも共通しているのですが・・・。

本では警察から追われるという判り易い設定ですが、社会のルールや固定観念などを警察に例えてみるのと同じなのかも知れないと思いました。

社会のルールや固定観念などが相手となると永遠に逃げ続けなけばいけないくて、時効などはないのですが、自分がその生活に馴染みさえすれば逃げているという緊張感などは持たなくて済むはずです。

「今を楽しむ」とか「ワクワクすることだけをする」というのも逃亡者の理屈かも知れません。

今の自分の生活と佐々井が逃亡する直前の生活とを比べながら読み進めてみると面白いと思います。

読み終わったあとに、違った世界が開けるかもしれません。

既婚女性の悩みを聞いていて共通していることがあります。

それは、ご主人に対して「遠慮」していることです。

いじめや自殺を無くしたいと活動している中園直樹さんの本、「オルゴール」と「星空マウス」を読んで思ったことは、いじめられる人の特徴として人に優しいということです。

自分よりも他人を大切にしています。

中園さんは、小学3年生から大学2年生までいじめられていて、自殺未遂をされているそうです。

彼の書く本は、全て実体験なのでとても説得力があります。彼の言っていることは、いじめられていた一人の少年の意見なのかも知れませんが、その中でいじめる側が改心したことを信じて許した結果、またそれまで以上にいじめられるようになり、それが原因で自殺してしまうというエピソードがあります。

彼のもとへ相談に来られた人の中にそういった人がいたのかもしれません。

とにかく人を信じて、疑うということを知らないのです。

夫婦の悩みをお聞きしているときも、相手の気持ちを考えて!とか、どうせ言ってもしかたがない!という言葉をよく耳にします。

よくよく考えてみるとどうもいじめられっ子と女性として扱われていない奥さんとは共通していることが多いような気がするのです。

その人の大切なものを取り上げて、欲しかったら俺の言うとおりにしろ!というのも女性として大切なもの(自尊心)を傷つけて、結婚したのだから諦めろと言うのは、同じ理屈ではないでしょうか。

いじめる側に立ち向かうことも、それが出来る人であれば効果があるでしょうし、そこから逃げることも必要なことだと思います。

いじめでも夫婦間の問題でもたぶん最初は、ささいなきっかけからお互いに様子を見だして、そこから自然と主従関係のようなものが出来上がっていくのではないかと思います。

自分が相手に対して遠慮しているなと感じたときは、いじめのスタートラインに整列しているかもしれないと思うようにしてください。

スタートのピストルがなる前に仕切りなおすことが、あなたにとって一番大切なことなのですから。

自分が全ての世界(他人も含めて)を作り上げていると考えることが出来れば、他人に遠慮するということは、自分に対して敬語を使うことと同じです。

自分に敬語を使っているような人がもしいたとしたら・・。

それだけでいじめたいと思ってしまいますよね。

昨日、西野亮廣さんの「グッドコマーシャル」という本の文庫化を記念したトークショーを観てきました。

ゲストは後藤ひろひとさんという脚本家で、パコと魔法の絵本の原作者として有名な人です。

西野亮廣さんは、はねるのトビラでも有名なお笑い芸人キングコングとして活躍していますが、本や絵本や演劇の分野などでパフォーマンスをしているというのを初めて知りました。

その二人のトークの中で、後藤ひろひとさんが話してくれた「ブラインドサイト」という言葉が印象に残りました。

NHKスペシャルで取り上げられていたことをそのまま話してくれただけなのですが、僕の中で妙にひっかかっています。

最近依頼者の方に言われるのが、いろんな顔を持っているとか印象が違うとか言われることです。

待ち合わせのときには、基本的にスーツで対面するのですが、何度もお会いしているかたとはもう少しくだけた服装で行くこともあります。

服装などによって印象が変わることもあるのですが、それ以上に待ち合わせのときの顔とホテルの部屋で話しているときの顔、ベッドの上にいるときの顔が違うようです。

依頼者の女性にしてもソファで話を伺っているときとベッドでは全然違った表情をされますので、僕が違っていると言われるのも納得できます。

ブラインドサイトというのは、全盲の人が目の前の人の表情(笑った顔やしかめっ面の顔)から自分にとって気持ちいいか不快なのかを判断するという実験結果から視覚情報以外の情報を人間は感知できるということを証明したものです。

視覚情報として判断する脳の部分の損傷だけの場合は、当然見るということは出来ないのですが、笑顔から受ける印象やしかめっ面から受ける印象などで自分の感情に変化が訪れるようです。

目が見えなくても前から向かってくるボールに反応できるのは危険を察知できる能力が備わっているからでしょう。

冒頭で僕の顔が違って見えるというのは、僕が変化しているのではなくて情報を受け入れる側のフィルターのようなものが働いていることや視覚以外の情報を感知するセンサーがより敏感になっているせいなのかも知れません。

実際に対面するまでに蓄積されているデータなどもかなり影響があるはずです。

マニアックな世界で有名な人などがそのいい例で、その世界のことを知らない人にとっては例え隣の席に座ったところで普通の人としか判断しないでしょうけれど、その世界にいる人にとっては神様のように後光が輝いているかもしれません。

僕は見た目が格好いい訳でもないですし、ホントに年相応のどこにでもいるおっさんといった感じですが、それでもリピートしてくださる人の脳には僕自身にはわからないなにかが影響しているのだと思います。

運命の人とか赤い糸でつながっているという関係も視覚以外のなにかが結びつけているのでしょう。

昨日の記事「運転手は誰?」に書いた車体ではなくて運転席に座っている本人を感知する能力が誰にでも備わっているのかもしれません。

派手な車や豪華な車と着飾ったところで、本当に大切な人を見つけるためには運転席から降りてお互いに握手することが大切だと思います。

そばに居るだけで気持ちいいとかホッとするという人を見つけるためには、視覚情報は必要ないはずです。

自己と自我という話を以前にもこのブログでしたことがあるような気がしますが、今日はもう少しわかり易く説明しようと思います。

その前にこの自己と自我という言葉自体が適切なのかどうかというところから始めたほうがいいのかも知れませんが、それに関してはまたいつか考えることにします。

自己とは本来の自分、素の自分、固定観念や刷り込みなどがない自分だと思ってください。

対して自我とは生まれてからこれまでの間に入って来た情報から生きるために必要なバリアーのようなものをまとった状態だと考えるといいと思います。

以前書いた「エゴマーク」というタイトルの記事にもあったように、生まれるとすぐにエゴが体に発生します。

赤ちゃんがお母さんの乳首を吸いながら反対側の乳首を触るのは、自分がそれを独占したいというエゴから発生する行為だと分析する学者もいます。

生きるために食料を確保したいという気持ちまでもエゴだとして、それがいけない行為だと決め付けることは出来ませんが、そのことが原因でいざこざが起きる可能性は十分あります。

ケーキの大きい小さいが原因で喧嘩する兄弟とは少し違うかもしれませんが、ささいな執着心が大きな問題に発展することはよくあることだと思います。

兄や姉と一緒に暮らしている一人の人間なのに自分の分け前が少ないということや先に生まれたせいで我慢を強いられるなど、自分の責任ではないのに扱いにおいて不満が残ることがあります。

兄弟間の格差だけでなく、隣のAくんとの比較や親戚のB兄さんとの比較など、自分に関係の無い基準を勝手に持ち出され比べられたりもします。

そのような環境で育ち、やがて社会人となるのですが、それからは人との比較に加えて社内ルールであったり、社会人としてのエチケット、ノルマなどというものが、のしかかってきます。

結婚すればまた別の要素が自分を覆っていくのです。

生まれてから今までに覆われてきたものが、形となって車になります。

自我とはその車に乗った状態のことで、自己とは車から降りて一人で歩いている状態だとイメージできます。

車を構成している部品の中には無くなれば動かなくなってしまう重要な部品もあればあればいいけど無くても走行自体にはまったく問題のない部品もあります。

悩みを抱える人たちはほとんどそういった部品に対していらいらしたり、おどおどしたりしています。

気持ちよく動いているときはいいですが、道幅が狭くなったり混雑してくるとまたまたいらいらしてくるのです。

全ては車に乗っているせいだということを忘れてしまっています。

ハンドルを握り、方向を決めるのも自分だし、アクセルやブレーキを使って速さをコントロールするのも自分です。

また車から降りることも自分の意思で出来るのです。

疲れたときに優しい言葉をかけて欲しいという欲求は誰にもあるだろうと思います。

その言葉は車でいうとガソリンなのかも知れません。

車に乗っている限りガソリンは必要ですが、スタンドまで行かずに誰かに入れてもらうのを待っている人もいます。

僕は車に乗らない生活を目指しているのですが、降りられないという人はせめて自分にあった車に乗り換えるか、動く仕組みや構造を理解することが必要だと思います。

とにかく運転手は自分だということを意識してください。

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