アダム徳永さんの本で、印象に残ったことがあります。
1.愛し合っていてセックスも合う。
2.愛し合っているのにセックスが合わない。
3.愛し合っていないけれどセックスが合う。
4.愛し合っていないし、セックスも合わない。
と、いった中で一番不幸なのは何番? という質問でした。
僕の記憶がかなりあやふやなので、こんな質問ではなかったかもしれないのですが、2番の愛し合っているのにセックスが合わないのが、一番不幸だと言っていた記憶があります。
僕も確かにそう思います。
セックスが合わないと愛も冷めていくような気さえします。
愛ではなく、情に変わるのかも知れません。
ところで、話が少しそれますが、女性は好きな人としかセックスが出来ないとよく言われますが、その真偽は正直なところよくわかりません。
出来る人もいるというのは、確かでしょうけれど。
今回のタイトル、愛情と快楽なのですが、愛情を自分の理想のタイプの人と置き換えても構いません。
なんとなく、快楽というか、興奮することに、愛情とかタイプとかは、あまり関係ないような気がするのです。
逆に相手のことが好きで好きでしょうがないといった気持ちがあればあるほど、性的な興奮から遠ざかると思うのです。
医者ではないので脳の仕組みを知っているわけではないのですが、興奮を感じる箇所と愛情や好意を感じる場所というのは、相反の関係でどちらかが大きくなると逆のほうが小さくなるような気がします。
まったく見ず知らずの男性から、強姦されたり、痴漢されたりしていることを想像して興奮するといった話を聞くことがあるのですが、愛する人とのセックスでは、決して体験できない特別なものがあるはずです。
逆に愛する人とのセックスでしか、味わえない充足感や安心感みたいなものもあるのは事実ですけれど、快楽や興奮というものに関して言えば、愛とは別物だと言えるような気がします。
愛し合っていて、セックスも合うというのは理想ですが、セックスが合わなくても愛し合っていればそれで十分だと思えるようになることも大切だと思います。
僕の仕事上、愛しているけどセックスが合わないという女性と遭遇することが結構あり、その際に、合わなくても愛していればいいのではないかとは、言ったことがありませんが、今日はなんとなくそんな気持ちになりました。
一人のパートナーから愛情も快楽もどちらも手に入れようとするのは、とても難しいことなのかも知れないと感じています。