少し前に橋田壽賀子さんが、文藝春秋に「私は安楽死で逝きたい」というエッセイを寄稿されました。

今年の5月に転倒し、顔に大怪我を負ったことがきっかけで、顔の怪我だけでよかったが、もしその時に足の骨でも折って、認知症になっていたらと考えたことから、人とコミュニケーションがとれない状態になったら安楽死させて欲しいと思うようになったそうです。

安楽死と尊厳死は微妙に違っていて、前者は本人の依頼、または承認によって人為的に死なせることで、後者は不治の病で助からないとわかったときに無理な延命措置を行わず、自然に死を迎えることのようです。

どちらにしても生きているだけの状態を自らの意思で拒否しているということが共通しています。

認知症や不治の病にかかってなく、健康な状態であっても、ただ生きているだけという人もいるかも知れません。

生きているだけで素晴らしいと思えたらいいですが、ほとんどの人は自分の存在意義を見出すことが出来ないと死を意識するようになります。

自分は人に必要とされていない。
生きていても仕方がない。
自分の存在が人に迷惑をかける。
……。

話が少しそれますが、昨日、渡る世間は鬼ばかりの第一回目の放送を観ました。

泉ピン子さんの初々しさに驚いたのですが、それ以上に登場人物が会話をするテンポの速さと役柄に合わせた台詞の的確さが印象的で、どの俳優さんも生き生きしていました。

主役の泉ピン子さんが演じる五月(さつき)は、嫁ぎ先で姑にいびられながらも、一生懸命に生きています。

五月には尊厳という言葉など思いつく暇もないのかも知れませんが、その姿は尊敬に値します。

この脚本を書かれた橋田さんは、当時55歳なのですが、様々な立場の人物をコミュニケーションで浮き彫りにする才能がとてもすごいなと思ったと同時に、自分自身がコミュニケーションをとることができなくなった時の恐怖を誰よりも感じるのだろうと想像できました。

尊厳を説明するのはとても難しいし、普段から意識することでも無いのかも知れませんが、自分で主張するものではなく、互いに尊重しあうときに自然と生まれるもののような気がします。

尊厳を保って死ぬ為には、尊敬できる人に囲まれて死んでいくことが、重要かも知れません。

人間はひとりとして同じではありません。自分には無いものを必ず他人は持っているでしょうし、そこに着目すれば全ての人を敬えるはずです。

なんか神父さんの話のようになってきて、僕らしくなくなったので、今日はこの辺で。

今日はこの辺でシリーズが続いてますね。