運命を辞書で調べてみると、人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力などといった意味があります。

宿命とか定めとか、変えることが出来ない最初から決まっていることを想像してしまいますが、僕は少し違った考えです。

運命を僕の考えている意味を理解しやすくするために別の熟語に例えると、それは「完成」なのかも知れません。

たとえば映画の完成。

映画を作るときは、原作があったりオリジナルの脚本があったりして、そこから役者を選び、映像として完成させるために必要なロケ地であったり、技術スタッフ、資金調達などいろいろな要素が必要になります。

ハリウッドのような巨額の費用を使うものから、自主映画のようなものまで色々有るとは思いますが、完成するとひとつの作品となります。

ある程度の筋書きがあったとしても、撮影していくうちに最初の考えから外れていくこともあるでしょうし、まったく脚本を一から見直すといったこともあるかも知れません。

人生を考えてみると、生まれてから死ぬまで、きっちりした脚本が出来上がっている人はほとんど存在しないのではないでしょうか。

子供の頃に将来の夢を描いてみたり、自分が目指す職業のために大学や専門学校に入るといったことはあるかも知れませんが、それはその人の人生にとってほんの一部の要素でしかありません。

映画で言えばプロローグに過ぎないものです。

運命に逆らうといった言葉ありますが、逆らっている気がしているだけでそれは最初から筋書きに入っていて、長い人生というドラマのワンシーンでしかないような気がします。

人生の完成が死ぬ時だと考えてみて、もし明日死んだとしたら、その脚本はよく出来たものだったでしょうか。

運命の人と出会ったと思って結婚しても、その相手を嫌いになることもあるでしょう。

今回の記事で、僕が言いたいことは、運命とは完成したときに決まっていたんだと振り返ることが出来るだけで、今(現時点)は脚本を自由に書くことが出来る状態であるということです。

運命に悲観したりする必要もありませんし、逆らう必要もなく、そもそも運命そのものが現時点では、存在しないのです。

僕は性感マッサージという仕事を始めてから、すでに400人以上の女性と対面しています。

僕の人生の脚本が、4年ほど前に自分でも想像できないほどの大きさで修正されたようです。

目の前に今の生活に不満を抱えている人がいたら、それは運命ではなく、自分自身が描いた脚本通りの人生ですよと言うと思います。

運命に振り回される人はこの世に存在しない。

自分が世界の中心だと思えば、目が回ることも無くなるはずです。