僕は自慢するわけではありませんが、熱しやすく冷めやすい性格で典型的な三日坊主だと思っています。

お前は三日坊主だなといわれて喜ぶ人はほとんどいないと思いますが、あまり物事に執着することがないと言い換えたりすると、それはそれで長所と捉えることも出来なくもありません。

ギターやサックスや水泳や料理などを凝りだしてやり始めたことがありましたが、どれもそこそこ出来るようになると飽きてしまってもっと深く追求しようとはしませんでした。

どれもまだこれからまた再開すればそれはそれでよしと考えているせいなのかも知れません。

自分のためになることをすぐに諦めるのを三日坊主というのだと思うのですが、例えば身内や大事に育てていたペットなどが亡くなったときに悲しむことはどうでしょうか。

僕は、かなりの反感を買うのを覚悟でいいますが、悲しんだり苦しんだりするのもその人の欲の結果だと思っています。

自分が悲しむことや苦しむことが好きで心地いいと思うエゴがそうさせていると考えています。

葬式で泣いている人に対して悲しむことを楽しんでるんでしょう!とはさすがに言えませんが、涙を流すことによって心のバランスを正常に戻そうとする機能が人間には備わっているのだと思います。

楽しいことであっても悲しいことであってもその原理は同じだと思うのです。

僕の場合は典型的な三日坊主なので、かりに悲しいことが起きてもたぶんずっと引きずるようなことはないと思います。

白状な男だと思われるかも知れませんが、もし仮に僕が死んだときに残された家族がずっと悲しんでいる姿を見るのはつらいですから、そういったことを考えると相手のことを思って悲しんでいるのではなく、自分の心のバランスをとるという自分のための行動にほかならないのではないでしょうか。

落語家さんのお通夜なんかでは、楽しい宴会のようなものをすると聞いたことがありますが、もし亡くなった人がそこにいるとしたら、じめじめしているよりもカラッと楽しい空気のほうがいいに決まっていますからね。

もしあながたよく三日坊主だと言われたり、自覚しているのなら、それはバランスを人よりも正常に戻す力が優れていると考えてみてはどうでしょうか。

今日の記事は、瀬戸内寂聴さんの話を聴きながら浮かびました。

その動画も掲載していますので、よければご覧ください。



300字小説 第52回
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『反骨精神』

「武士の娘だったとかなの?」

「違うんです。若いときに高野山で住んでいた人と結婚がしたいということで、どうせ駄目なものなら堂々と入ってやろうっていう気持ちからなんだと思います」

「その後、そこで味噌屋を経営したそうですが、かなりの商売上手だったみたいですね」

「馬で入ってから女人禁制が解かれるまで20年以上もあったんですが、その間はかなりの迫害に遭われたそうですが、もともと気質が荒いイチノさんは、男たちを追い払ったそうです」

「そういう意味では、もう当時はいなくなっていた武士のような人だったのかも知れませんね」

「猿を飼うのは高野山では禁止なのに、それにわざと反発しているかのように飼っていましたしから」
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