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著者のエマソンさんは、1803年にアメリカのボストンで生まれ、1882年になくなりました。
18歳でハーバード大学を卒業後、3年ほど教師をされました。
その後、牧師となりましたが教会制度をめぐって教会と衝突し辞職。
1834年から執筆や講演活動を行っていたそうです。
この本はタイトルを見てすぐに買おうと決めました。
僕がいつも言っている自分を信じて自分が世界の中心であるということを意識することが
大切だということの裏づけがとれるのではないかと思ったからです。
僕は自分の考えを人に押し付けようとは思いません。
それはその人自身の世界はその人が中心であると理解しているからです。
あなたが僕の言っていることで本心から共感することがあれば、
それはあなた自身が自らの声を聞いているからだと思うのです。
自己を信頼することを簡潔にまとめている箇所を引用します。
世間一般の基準を拒否すると、世間はその人があらゆる基準を拒み、道徳律を廃しようとしているのだと考える。
厚かましい感覚主義者は哲学の名を借りて、自分の罪をとりつくろおうとするだろう。
しかし世間の基準は無視できても、自分の意識からは逃れられない。
懺悔の席は二つある。われわれはどちらかの席に座って、罪のゆるしをえなければならない。つまり自分の基準に従って自分のつとめを果たすか、外部の基準に反射的に従うか、だ。
自分は父、母、いとこ、隣人、町、猫、犬と適切な関係を築いてきただろうか―誰かに非難される余地はないだろうか。しかし、このような外部の基準は無視し、自分の基準をもとに自分の行動を判断することもできる。
私には自分で定めた高い目標と揺るぎない世界観がある。この基準に照らせれば、世間では義務と呼ばれている多くのことも、私にとっては義務ではない。自分の基準を満たすことができるなら、世間の基準に従う必要はなくなる。これを楽な道だと思うなら、一日でもそれに従ってみることだ。
実際、神のような性質を備えている人でもなければ、俗人的な動悸を捨て、自分自身を信頼し、自らの監督者になることはできない。
その心は気高く、意思は揺るぎなく、瞳はどこまでも澄んでいる。
そのような人にとっては、真剣に守るべき教義、社会、法は自分自身をおいてない。その人の中では、たったひとつの素朴な目的が、ふつうの人々が人生の鉄則と考えているものと同じくらい重要なものかもしれないのだ!
僕には今のところ「自分で定めた高い目標」も「揺るぎない世界観」も持ち合わせていません。
自分がやっているこの性風俗の仕事に対して気持ちが揺らいでいます。
もし僕が独身で身内がひとりもいないということであれば、もっと自身を持って活動できるのかもしれません。
ただそういった外的な要因に左右されること自体が自分を本気で信頼できていないという証拠にもなります。
僕がもっと自分を信頼できるようになるためには、僕が期待している目標を達成させる必要があると思います。
頭で信頼するのではなくて行動した結果を目で見ることが出来れば一気に信頼度があがることでしょう。
自分と自らの監督者である自分が揺るぎない信頼関係で結ばれるのはそう遠くないと思っています。
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